メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

オスマンベイの繊維街

オスマンベイは繊維の街。生地問屋から、既製服の卸し、小売り店に至るまでが軒を並べている。影響力のある大きな生地問屋の経営者には、ユダヤ人やアルメニア人のトルコ国民が多く、他にも様々な外国人が事務所を構えていて、なかなかコスモポリタンな雰囲気だった。
例えば、「アジェムオウル」(異邦人の息子、の意)という生地問屋の社長はナタン・コーヘンというドイツ人だった。この人は、ドイツの生まれなのか、もともとトルコで生まれ育ったのか良く分からないが、言葉使いからその仕草に至るまで、周囲のトルコ人と何ら変わるところもなかった。
数世代に亘ってイズミルで海運業を営むオランダ人の一族もいるそうだから、あるいはコーヘン氏も、そういう人だったのかも知れない。
トルコの繊維商いは殆どイスタンブール一極集中で、地方に基盤を持っている業者も、本社はこの辺に置いている。それで、ムスリムトルコ人の経営者たちも出身地は様々で、クルド人やアラブ人など色んな人たちがいた。
さらに、この街には、韓国人の経営する洋服屋もあったという。
94年頃、イスタンブール在住で専門はペルシャ文学という韓国人の少壮学者から聞いた話で、彼は雑談の最中、「ところで、ソウルの鐘路に何で洋服屋が多いのか知っていますか」と切り出した。
「あれは、まだ日本の殖民統治時代、ロシア革命で亡命して来たトルコ系のタタール人たちがあの辺に洋服屋を出したのが始まりなんです。戦後、彼らの多くはイスタンブールへ渡って来て、今でもオスマンベイの辺りで洋服屋をやっている人たちがいます」
「すると、タタール人の洋服屋さんには、多少韓国語の分かる人もいるのでしょうか?」
「いや、少なくとも私は、そういう人に出会いませんでした。何しろもう半世紀経っていますから、忘れてしまったんでしょう」
でも、良く考えて見れば、当時の鐘路は明治町と言われていて、日本人の居住区だったそうだから、タタールの人たちは日本語を使っていたのかも知れない。
さて、韓国人の洋服屋さんだが、店主である韓国人の男性は、戦前ソウルの鐘路でタタール人夫婦が営む洋服屋に奉公していた人で、夫に先立たれた女主人と結婚、一緒にイスタンブールへ渡って来たそうである。
こんな話を思い出して、オスマンベイに居た頃は、その韓国人の洋服屋さんやタタールの人達に出会わないものかと期待した。しかし、ここに居られたのも僅かに5ヶ月で、結局彼らにまつわる話を聞くことさえなかった。
この当時オスマンベイでも、既に韓国製は安かろう悪かろうという評価になっていた。あるトルコ人の問屋さんは、「韓国の人達って、メンタリティートルコ人に似てんじゃないのかな?」と言う。
「小口で発注している時は、ちゃんとしたもの送って来るんで、安心して大口の発注かけると、どかーんと大量に不良品を送りつけて来るなんて、トルコ人も良くやる手なんですよ。そこへ行くと、日本の人達は本当に誠実ですね。日本人と取引して嫌な目に合ったという話は全く聞いたことがありません」
しかし、日本でも明治時代、アメリカへ鉛筆を輸出するのに、先っぽと尻の方だけ芯を詰めてごまかそうとした業者がいたという話をどこかで読んだ覚えがある。それで、このトルコ人の問屋さんに、日本人は誠実と言われたことに感謝しながらも、
「それは、誠実であるとか、そういう問題じゃないと思いますよ。日本人だって、昔は似たようなことをやっていたんでしょう。ただ、そんなことしていると、長期的には儲からないと分かったからやらないだけで、利益追及に関してはずっと厳しいはずです」と説明すると、
「えっ、そうなんですか。それでは、日本人はユダヤ人みたいだってことになってしまいますね。ユダヤ人は根性の悪い連中ですが、彼らの扱っている商品には嘘がありません。みんなそれを知っているんで、結局この辺でもユダヤ人ばかりが儲けてしまいます」
この人は、それでも日本人のことは大好きだ、なんて話していた。でも、これは、お互い遠く離れていて、経済的にも関係が薄いから、そう思えるだけで、日本がトルコの隣に引っ越して来れば、「日本人は根性の悪い連中ですが・・・」となるに違いない。そういえば、このセリフ、韓国の人たちからは随分聞かされていた。