メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ語のすすめ

韓国大手家電メーカーのエリート社員だったキムさんは、トルコ語は勿論のこと、英語にも堪能で、以前パナマに駐在していた経験からスペイン語もできる。 

まあ、私は英語が殆ど解らないので、キムさんの英語力がどんなものなのか、本当のところは何とも言えないが、傍で聞いている限り、かなりのレベルであるような気がする。このキムさんの説によると、英語は国際語として不適格なんだそうだ。

 「これだけ各国の人達が長い間英語の学習をして来ているのに、未だに何処でも通用するってほどではありません。英語は発音が難解で簡単に学べる言語ではないからなんですね。私も随分英語を勉強しましたが、今でもネイティブ・スピーカーの会話を正確に全て聞き取ることはできません。もし世界の人々が英語の学習に費やした労力をトルコ語の学習に使っていれば、世界何処へ行ってもかなりのレベルでトルコ語が通用するようになっていたと思いますよ」
確かに、トルコ語は発音の面で英語に比べれば相当楽なはずである。ネイティブ・スピーカーであるトルコ人の会話は聞き取り難いなんてこともない。かえってネイティブ・スピーカーの方が解り易いだろう。だいたい私でも何とかなっているのを見ればトルコ語が聞き取り易いのは明らかだ。
なにしろ、私は耳が頓珍漢に付いているのか、日本語でも固有名詞や数字を聞き取れないことが時々ある。

友人のところへ電話したら、携帯の番号を告げるメッセージが録音されていたので、何回も電話を掛け直して聞き取ろうとしたものの、結局聞き取れず、後で友人に苦情を言うと、「聞き取れなかったのはあなただけですよ」と言われてしまった。
それで、トルコ語の学習を始めた時も、各国語の学習テープを聞き比べてみて、とにかく聞き取り易いということでトルコ語を選んだくらいである。
トルコ語の文法は、日本語や韓国語に近いので、なおさら私達には学び易いが、イズミルトルコ語学校で勉強していたドイツ人によると、彼らにとっては、まるっきり違うはずの文法も、活用の変化などが規則的で例外が少ないため、そんなに困難ではないらしい。キムさんの言う通りトルコ語は国際語に適しているのかも知れない。
それに、トルコ語は表現が豊かでなかなか味のある言語ではないかと思っている。といっても私は他に韓国語がある程度わかるだけなのだが、トルコ語を学んでみて、少なくとも韓国語より遥かに面白いと感じた。韓国語は、動詞によっては受け身や使役の形にするのが難しい場合もあり、何か表現の幅が狭いような気がするのである。
ある韓国の人から、「トルコ語と日本語に共通する韓国語にはない特徴というものがありますか」と訊かれた時に、共に受動態を良く使う点を挙げたところ、
「そうですか、韓国語にはもともと受動態などありませんでした。良く『センガクトェンダ=考えが成る(考えられる、という意味で使われている)』なんて言い方をする韓国人もいますが、あれは殖民統治時代に日本語から受けた悪しき影響の名残で本来韓国語にはなかったものです。『考える』と言えば充分なわけで、『考えられる』というのは、責任の所在を明確にしない卑怯な言い方だと思います」
トルコ語でも、この「考えられる」とか「言われる」は実に良く使われていて、やはりそこには責任を逃れようとする意図が見えなくもない。
とはいえ、受け身などを使うことによって主語を変えたり曖昧にしたりするのは、何も責任逃れの為だけではないだろう。

例えば、「私は女房に逃げられた」と受け身にするのは、主語を「私」にすることで「私」の責任を明らかにする為であると説明する人もいる。

また、「お茶が入りました」という言い方は、「私がお茶を入れてあげました」と言った時の押しつけがましさを避けた日本語特有の奥ゆかしい表現であると書かれた本もあった。しかし、そういう言い方だったらトルコ語にもある。「チャイニズハズル、ブユルン(あなたのお茶が準備できています。どうぞ。)」
この他にも、「アンラドゥヌズム?(あなたは解りましたか?)」と訊くより、「アンラタビルディムミ?(私は解らせることができましたか?)」、電話口で相手が誰であるか尋ねる時も、「シィズキムシィニス?(どなたですか?)」ではなく、「キミィンレギョルシュヨルム?(私はどなたと話していますか?)」と言うことで、もっと敬意を伝えることができるなど、トルコ語にはなかなか奥ゆかしい表現がある。

もちろん、実用性が低く、お金の稼げる言語ではないが、趣味として学んでみるつもりなら充分に楽しめるはずだ。