メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

スポーツ精神

雑誌か何かで読んだ話だけれど、日本のスポーツ選手の多くは、相手に反則があると、それを審判にアピールして防ごうとするものの、欧米の選手などは黙って同じ反則をやり返すという。
これでは、なんだかスポーツの精神に反しているような気もするが、“スポーツ”の語源は“狩猟”にあると言われ、非常に闘争的なものだから、ファイティングスピリッツに欠ける行為よりは、こちらの方が遥かに健全らしい。
それどころか、日本の武道に見られる「礼に始まって礼に終わる」というのは、スポーツの精神とは相いれないそうである。スポーツでは、勝利をもぎ取るために全力を尽くし、勝者は栄冠を手に入れ、敗者は全てを失う・・・。
大相撲の場合、入門した力士は精進を重ねている限り、部屋から追い出されたりしないが、日本のプロ・スポーツの世界でも、これは例外じゃないだろうか? それこそ、メジャーリーグ等になると、敗者は情け容赦もなく、切り捨てられてしまうらしい。
大航海の時代から産業革命を経て、西欧が世界の覇者となった背景には、このスポーツの精神も横たわっているような気がする。戦争や経済発展は、こういった精神によって支えられていたかもしれない。
だから、「平和の祭典オリンピック」などと言うのは、かなり矛盾していると思う。ひょっとすると、「平和」と「発展」も、二律背反する概念であり、実際は、社会の発展を阻害し、停滞させてしまうことが、平和へ至る道ではないのか?
例えば、かつてサウジアラビアでは、女性を家の中に閉じ込め、男女は、親族の取り決めに従って、お互いの顔を見る前に結婚させられていたそうだ。
この制度に対しても、「女性蔑視だ!」などと騒ぎ立てる前に、「女性を奪い合う必要のなくなった男の闘争本能は弱まり、社会はめでたく平和と停滞を迎える」なんて考えて見るのはどうだろう?
しかし、数世紀前から、スポーツ競技場のように、熾烈な競争の場と化してしまった世界で、発展を放棄すれば、それは全てを失う結果に繋がりかねない。
また、自分たちが充分豊かになった後で、「もう競争は止めよう」という勝ち逃げは、許されないばかりか、今からリーグ戦への出場を虎視眈々と狙っている新興国の人たちに対して、余りにも侮辱的であるような気がする。

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