メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

偽りても賢を学ばんを・・・

「・・・狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」と徒然草の 八十五段に記されていた。

だからと言って、偽りで善を行う者まで「善人」と言えるのかどうか解らないが、人を欺くための「偽善」でなければ、少なくとも、悪人の真似をされるよりましだろう。

如何わしい「平和主義者」も、明け透けな「力の信奉者」と比べたら、遥かに安心できる。偽ってでも、「善」や「平和」を学ぶべきではないのか?

そもそも、偽りのない「善」や「平和」など、望んではいけないかもしれない。いずれも、おそらくある程度の偽りがあって成り立っているのだと思う。妥協の産物である「平和」には、多くの偽りが含まれているはずだ。

偽りを認めず、全てを正そうとすれば、それは現実から遠ざかって、只の綺麗事になり、却って全てが偽りになってしまいそうである。

ところが、人間は、どうしても自分の方が、より正しいと思いたくなるため、お互いの偽りを詰り合い、非現実的な議論にはまり込んで行く。とはいえ、こうして相手を論破するぐらいの強い意志がなければ、進歩も発展もなかったに違いない。

徒然草も、発展の原動力と成り得る書物では、決してなかったような気がする。

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