福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、神仏など信じていないことを強く主張している。
しかし、現代の日本では、そこまで主張すると却って奇異に感じられてしまうような気もする。
多くの人たちにとって、既に宗教は興味を懐く対象にもなっていない。神仏を信じるとか信じないとか、どうでも良い話ではないだろうか?
テュルキエ(トルコ)で、無神論などを主張していた人たちは、この辺りをちょっと勘違いしていたかもしれない。
『日本には宗教を信じていない人が多い』と聞いて、『それなら無神論で意気投合できる』とばかり、熱心に論じ始めるけれど、こちらは『どうでも良い話』に疲れ切ってしまったりする。
あれは、ひょっとすると「無神論」という宗教を信じているのではないかと疑ったこともある。あれほど信仰を強く否定しようとするのは、裏を返せば、それだけ信仰に対して重大な関心を懐いているのだろうと思ったからである。
いずれにせよ、あまり世俗的な態度ではないように感じられた。
テュルキエでも若い世代の中には、宗教を熱心に信仰するわけでもなければ、熱心に否定することもなく、関心さえ示さない人たちが増えているかもしれない、どうなんだろう?
また、無神論はどれほど合理的な思想なのかも考えてみなければならないと思う。
テュルキエには、上記の駄文でご紹介したように、「神(アッラー)は何処にいるのか?」という問いに対して、「神(アッラー)は信じる者の心の中にいる」と答えた信仰に篤いイスラム教徒もいる。
どのぐらいの割合で、このように考えている敬虔なイスラム教徒がいるのか解らないが、如何なる無神論者も、彼の心の中にいる「神」を否定することは出来ないはずだ。
ところで、キリスト教徒は、同様の問いに対して、「神は信じる者の心の中にいる」と答えることができるだろうか。
「神は心の中にいるとして、神の子であるイエスは何処にいたの?」ということになってしまうからである。
イスラムの神は、キリスト教に比して、非常に抽象化し易い存在ではないかと思う。