メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

これも「運命」と思って諦めよう

昨日は散々な目にあった。まさしく「負の連鎖」だった。

昼、姫路の喫茶店で美味しいコーヒーを楽しんでいたら、突然、鼻血が出て来たのがその始まり。直ぐに止まるかと思ったけれど、これがなかなか止まらない。

おそらく、暖房の効いた店内でのぼせてしまったのだろう。まずは外へ出て冷まさなければと、慌てて会計して店を出た。

その後はコンビニでティッシュを買い求め、駅前のショッピングモールにある広い洗面所で、鼻の穴に詰めたティッシュを何度も取り換え、ようやく出血が治まったので顔を洗い、鼻の回りの汚れを落としてから、はたと気が付いた。近視用の眼鏡ではなく、本を読む時などに使う老眼鏡を掛けていたのだ。道理で周囲の視界がクリアではなかった。

茶店で本を読もうと思って老眼鏡に掛け替え、近視用はケースに収めてナップザックに入れたはずだったが、中を探しても見当たらない。ナップザックのチャックが開いたままになっていたので、何処かで落としてしまったらしい。それから喫茶店まで道々注意しながら戻り、喫茶店でも探してみたけれど、結局、見つからなかった。

老眼鏡でも道は歩けるし、日常生活には困らないが、車の運転は無理だから仕事にならない。幸い、駅前ショッピングモールの中には眼鏡店もあり、ここで眼鏡を新調することができた。

しかし、緊急に作ってもらわなければならなかったため、安価なレンズを使うといった選択肢もなく、私としてはかなり高額な買い物になってしまった。と言っても、3万5千円ほどだが、多分、今までに購入した最も高価な眼鏡だと思う。

実に痛い出費だったけれど、もう済んでしまったし、運が良くなかったと諦めることにする。

人間万事塞翁が馬」で悪いことがあれば、そのうちきっと良いこともあるに違いない。そう思えば気も楽になる。トルコには「鳥の糞を落とされた後に宝くじを買うと当たる」なんて俗説があるけれど、これも同じ理屈によるものだろう。

私はこの程度の災難であれば、少し大げさかもしれないが、『これも運命だから仕方がない。もしも眼鏡が無くなっていなかったら、交通事故とかもっと酷い目にあっていた』と考えることにしている。

実際、喫茶店で鼻血が出なくて、本を読んで長居していたら、その後、どういう運命が待ち受けていたのか、今となっては解らないだろう。1時間後に喫茶店を出て、読んでいた本のことでも考えながらボンヤリと歩いていたら、本当に何処かへぶつかっていたかもしれない。

トルストイが「戦争と平和」の巻末に記したエピローグの中に、「人間の行為の非自由性」なるものを延々と論じている部分があった。

これを私は、『人間が自分の意志で行ったと思っている行為も、なんらかの運命的な力に支配されているのではないか』という風に理解したけれど、例えば次のような説明が試みられている。

「・・1分間前に行った行為を検討するならば、その行為は疑いもなく自由なものと思われるであろう。〈中略〉10年ないしそれ以上も昔の行為を回想するならば・・・・・・もしこの行為がなかったらどうだろう、というようなことを想像するのに、極めて困難を覚えるだろう・・・」

私はこのくだりを読んで、「そんなこと当たり前じゃないか」と思ってしまった。ところが、この後も数ページにわたって、同じような説明が何度も繰り返されるのである。

私たち日本で育った人間の多くは、こういう運命的な何かを、よく考えもせず、なんとなく当たり前な事としてそのまま受け入れてしまっているように思えてならないが、どうだろうか?

私たちが余り宗教に入り込まない理由もここにあるような気がする。

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