第一世界大戦以降、多民族帝国は次々と崩壊して行ったが、中国だけはモンゴルの独立を許したぐらいで、ほぼその領域を維持しているのではないかと思う。
これには、やはり共産党による強い統制力が必要だったのかもしれない。
例えば、国民党により西側の枠組みに入っていたら、もっと早く経済的な発展を遂げたとしても、欧米の干渉を防げずに分割されてしまったような気がする。
ウイグルやチベットはもちろんのこと、上海や福建といった各省も独立した挙句、西側資本の食い物にされてしまったのではないだろうか?
中国の人たちの話を聞いていると、揚子江の南に位置する各省と北京の間には、相当な文化の隔たりもあり、ロシアとウクライナ、あるいは関西と関東に見られるような、『どちらの歴史が古いのか? どちらが本流なのか?』といった葛藤を感じさせられたりする。分割工作は結構巧くいったかもしれない。
20年ほど前に観た中国の映画で、「上海人は皆浮気者だ!」と他省の人が上海の人を詰る場面があったけれど、この場面だけ何だかとても良く覚えている。
というのも、ちょうどその頃に中国人の友人から同様の言葉を聞かされてしまったからだ。
以下の駄文で紹介した福建省の陳さんとは、1992年、トルコから一時帰国した際に知り合った。
91年、東京の東池袋からトルコのイズミルへ旅立った私とほぼ入れ違いで、陳さんはイズミルから東池袋の目と鼻の先にある大塚へ渡ってきたのである。
トルコへ旅立つ前、私は大塚に住んでいた上海人のヤンさんと親しくしていたので、陳さんの大塚のアパートを訪ねてから、「この近くに上海出身の友人がいた」と話し、ヤンさんが上海に奥さんを残して単身日本へ留学しにきたことなども明らかにした。
その後、渋谷へ向かうため大塚の駅へ出たら、なんと若い女性と肩を組んだヤンさんが向こうから歩いてきたのである。ヤンさんも驚いたようだが私も驚いた。
それでも、素早く陳さんとヤンさんに双方を紹介すると、ヤンさんも照れながら「日本人の友人です」と若い女性を紹介したけれど、どう見ても友人というより恋人だった。
陳さんは、ヤンさんらと別れてから直ぐ、私に厳しい表情を見せながら、「上海人は皆あんなことをします」と言ったのである。
そういえば、ヤンさんのアパートでヤンさん手作りという料理をご馳走になった時も、アパートの部屋にはもう一人若い中国人の女性がいた。
おそらく、自分で作ったと言いながら、彼女にも手伝わせていたのだろう。その彼女も、もちろん単なる友人ではなかったに違いない。
私は『ヤンさんモテるなあ』と思わずニヤニヤしてしまったけれど、陳さんはかなり不機嫌だったようである。
上海は中国の中でも抜きん出て繁栄しているから、他省の人たちから様々な面で妬まれたりしているのだろう。
「上海人は浮気者」という言葉にも相当やっかみが含まれているのではないかと思う。
まあ、私も上海には美人が多いようなイメージを勝手に作り上げているくらいだから、他省の人たちがやっかむのも無理はなさそうだ。
「分割の危機」なんて話から随分と和やかな話になってしまったが、今の中国で各省間に葛藤があったとしても、この程度ではないだろうか?
しかし、中国が欧米に気を許すのはまだ早いかもしれない。欧米が自分たちの繁栄を脅かす者をそのまま放って置くようには思えないからだ。