メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

スターリンとエルドアン

11日から勤務先は盆休みに入っている。福岡の配送センターも三宮の警備員の職場も年中無休で盆や正月に長期休暇などなかったから何だか奇妙な感じがする。

当初はこの休暇を利用して、東京に行って来る予定だったが、母の容態もあり、いつでも鹿児島へ行けるよう大人しく自宅で待機することにした。

そのお陰で、6月末から少しずつ読み進めていた中公新書の「スターリン」を、昨日、ようやく読み終えることができた。

特に感想など書くつもりはないけれど、いくつか興味を引かれたことを記してみたい。

グルジアで生まれたスターリンの父母はグルジア語しか解らなかったため、スターリンは学校教育でロシア語を学んだという。

トビリシの神学校へ進んだ多感な少年時代には、抒情的な詩も書いたりしたが、それはグルジア語で記されていた。後年、母親へ書き送った手紙もグルジア語だったそうである。

1860年頃、グルジアの村で農奴の娘として生まれた母親が、グルジア語の手紙であれば読めたというのも少し意外に思えた。

グルジアは、4~5世紀頃、既に独自のグルジア文字を創造したくらいなので、当時から民度はかなり高かったのかもしれない。

スターリンは思想家というより、実務能力に長けた活動家で、その蔵書にも実用的な書籍が少なくなかった。非常な読書家であり、なかなか几帳面なところも見られたらしい。

本書ではなく、ウイキペディアの記述だが、第二次世界大戦当時、ソビエト赤軍の総司令官だったジューコフによれば、スターリンは報告書の誤りを見つけるのが異常なほど巧かったため、スターリンに提出する報告書は入念に準備したという。スターリンも、その報告書を入念に読み込んでいたのだろう。

当たり前かもしれないが、些細なことも疎かにしない勤勉な指導者だったのではないかと思う。

トルコのエルドアン大統領も母方はグルジア人であり、現実的で交渉などの実務能力に優れているところも似ているような気がするけれど、やはりイスタンブール市長時代から報告書には細かく目を通していたと言われている。

その後、首相として地方の行政官を任命する際には、就寝中も携帯電話を切らないよう訓示したことが報じられていた。深夜に至ってからも報告書等に目を通し、疑問点があれば直ちに携帯電話で問い合わせるためだったそうである。

さすがに68歳の現在は、そこまでしていないと思うが、首相在任当時は、僅かな睡眠時間でも持ちこたえる体力が喧伝されたりしていた。

おそらく、スターリンも勤勉に長時間の業務をこなすだけの集中力と体力に恵まれていたのだろう。

しかし、後半の粛清にまつわる記述には驚いた。よくもまあ殺したものである。

革命という特殊な状況、そして全てにスターリンが関与していたのかどうかは不明である点にも言及されているが、側近らも次々と粛清されて行ったのは異常な事態であると言うよりない。

トルコもオスマン帝国から共和国へ至る過程では、革命的な改革を試みているけれど、あのような粛清の史実は伝えられていない。

そもそも、ロシア革命で皇帝ニコライ2世の家族が皆殺しにされてしまったのと異なり、オスマン帝国の皇帝一族は国外退去を求められただけである。この辺りには、ロシアとトルコの気質の違いが見られるのかもしれない。