メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「ベトナムからイラン、トルコへ・・・」

《2010年6月14日付けの記事を修正して再録》

ベトナムとイランを経由してトルコへ渡ってきた韓国の人たちの話だが、後日(2010年6月頃)、イスタンブール在住の日本人女性と雑談していたら、この方もキム・ドゥギョンさんと知り合っていたことが解った。

私よりもっと親しい付き合いをしていたようである。しかし、「5年ぐらい会っていないので、今はどうされているか知らない」という話だった。

私も最後にキムさんにお目にかかったのは2005年頃だっただろう。それも街角で二言三言挨拶を交わしただけである。

息子さんとは、2007年頃に会って、変貌ぶりにちょっと驚いたことがある。

私がキムさんやその家族と良く会っていたのは92年から94年にかけてで、息子さんはその頃、エティレルにあった韓国カラオケでバーテンをしていた。19歳ぐらいだったと思う。

凄くハンサムで、韓国の若者らしく年上の人間にはやたらと礼儀正しかったけれど、ちょっと突っ張った不良っぽいところがあり、ロックを英語で歌ったりすると、なかなか様になって格好良かった。

それが、2007年頃に会った時は、荒々しい角が取れていたうえ、少し太った所為もあって何だか随分丸くなったように感じられた。

彼は韓国で兵役を済ませ、韓国企業のトルコ支社長に収まっていたそうで、お父さんのキムさんも元気であると話していた。

日本人女性の話によれば、キムさんは、イランにいた頃、日本企業に勤務して結構羽振りも良かったのに、トルコへ渡って来た時は、既に60歳を越えていたので、適当な仕事が見つからずに苦労したらしい。

息子さんが韓国人女性と結婚した際には、数十年ぶりで韓国へ帰国し、サイゴン陥落のどさくさで行方不明者にされてしまった自分の墓を見て驚いたそうである。

また、日本統治時代の子供の頃、日本人からとても親切にされて良い教育を受けたので、何とか日本の人たちへ恩返しがしたかったと話して、この日本人女性に親切にしてくれたという。私はキムさんと韓国語で会話していたから、日本人とは思われていなかったのだろうか? こういった話は聞いていなかった。

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