メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「しょうもない東洋人の親子」

《2010年6月11日付けの記事を修正して再録》

91年の4月に初めてトルコへ来て、翌92年の5月までイズミルに住んでいた頃は、3ヵ月の滞留期間が切れる度に、キオス島というエーゲ海に浮かぶギリシャ領内の島へ往来していた。

それこそ数え切れないくらい島へ往来した印象があるものの、良く考えてみると、1年間なら滞留期間の延長は4回で済んだはずである。

その内、一度はクシャダスからサモス島に渡っているので、キオス島へ渡ったのは3回だけだったに違いない。なんだか意外な気がした。

島へ往来するのは、滞留期間の延長が目的だから、朝の船で島へ渡り、夕方、同じ船で戻ってくるのが常だったけれど、92年の4月だったか、キオス島へ渡った船が、天候の悪化で、その夕方トルコへ戻れなくなり、仕方なく島内で一泊したことがある。

この時は、同じ船にハンさんという顔見知りの韓国人が乗っていた。ハンさん、当時、65歳ぐらいだっただろうか? イズミル市内のカルシュヤカにあった韓国料理屋の店長をしていたのに、長期滞留許可は持っていなかったようだ。

ハンさんとは、いつも韓国語で会話していたが、日本統治時代に育った方だから、日本語もかなりお解かりになっていたと思う。「日本語は解るんだが、余りにも長い間使っていなかったので、思うように口から出てこない」と残念そうに話していた。

キオス島の船着場で、夕方、ハンさんや他の乗客たちと出航を待っていたところ、トルコ人の船長から欠航を知らされた。翌朝9時に延期されたのである。

船長に訊いたら、彼や船員たちが泊まる安いホテルが近くにあるというので、ハンさんと一緒について行き、結局、二人で一部屋に泊まって、寝る前に酒を飲みながら語り合った。

翌朝は、電話の音で起こされた。ハンさんが電話に出て、少しトルコ語で話してから切ると、「大変だ。もう時間だって、船長が電話してくれたよ」と言いながら、窓の雨戸を開けたところ、もうかなり高くなった日の光が眩しいくらいに差し込んで来る。

この雨戸が全く光を通さなかったものだから、部屋は真っ暗で二人とも寝過ごしてしまったのだ。

慌てて、船着場まで小走りに走っていったら、欧米人の他の乗客たちが恐い顔して私たちを出迎えてくれた。

でも、トルコ人の船長と船員たちは、一応小言を言いながらも、それほど嫌な顔付きじゃなかった。船員の一人は、「なんだよ、お父さんも起きなかったのか?」と笑っていた。『しょうもない東洋人の親子だなあ』と思ったのだろう。

後日、この話を日本人の友人に話したら、「トルコの人たちはやっぱり優しいなあ。日本だったら、船は絶対に待ってくれませんよ」と言われてしまった。

確かにそうである。この優しさにはもっと感謝しなければならなかったような気もするけれど、トルコで暮らしていたら、これに慣れてしまっていたかもしれない。

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