オリンピックの開会式では、カザフスタンの旗手を務めたオリガ・ルイパコワ選手の美しさが評判となっていた。
ルイパコワ選手も「祖国の広報に役立つことができて嬉しい」と語っていたそうだが、彼女はロシア人であって、カザフスタンの主要民族であるカザフ人ではない。おそらく、カザフ語も話せないのではないかと思う。
カザフスタンはソビエトが崩壊した1991年に独立し、以来、ロシア人の住民は、ロシアなどへ移住して減少したものの、今でも20%近い人口が有り、ロシア語も公用語として認められているという。
そもそも、都市部に住んでいるカザフ人の中にもカザフ語が話せず、ロシア語を使っている人は少なくないらしい。
一方、隣国のウズベキスタンは、ウズベク人が人口の84%を占め、ロシア人の割合は2%ほどに過ぎないそうである。
ところで、2012年、トルコの連続ドラマで私がエキストラとして共演した女優さんは「ウズベク人」と自称していたけれど、外見はロシア人のようであったし、トルコ語が余り解っていなかった所を見ると、ウズベク語の話者でもなかったような気がする。ウズベク語を話す人たちは短期間の内にトルコ語をマスターしてしまうからだ。
片親はウズベク人だったのかもしれないが、母語はロシア語であり、周囲からも「ロシア人」と認識されていたのではないかと思う。
いずれにせよ、ソビエト崩壊後も少なからぬロシア人がカザフスタン等にそのまま居残っていたらしい。
しかし、かつて植民地を持っていた他の国々では、植民地が独立すると、殆どの人たちが本国へ引き上げてしまったようである。
日本人が独立した朝鮮から引き上げる時の話は、私も聞いたり読んだりしてきた。
こういった例に比べて、ロシアの人たちはなんと大らかだったのだろう。彼らが主張するように、カザフスタン等を植民地とは考えていなかったのかもしれない。
2004年、イスタンブールのロシア正教会の教会で出会ったウクライナ人の女性に、「ソビエトの時代、ロシア人とウクライナ人の間には何の問題もなかったのですか?」と尋ねたところ、「ありません。ユニオンだったのです」と力強く言い切っていた。
カザフスタンの状況は、もちろんウクライナとは異なっていたはずだが、ロシアはアジアに対して、西欧ほどの偏見と差別意識で接してはいなかったような気もする。
幕末の日本へ軍艦で押しかけて開港を迫った米国より、ロシアの外交姿勢は遥かに紳士的だった。
やはりアジア人と接触してきた(あるいは交わってきた?)歴史が長かったので、偏見や差別意識も薄れていたのだろうか?
以下にお伝えしたタタール人の家族は、富裕者であったために、赤軍の迫害を恐れて、ロシアから朝鮮へ逃れてきたのである。
つまり、ロシア帝国には、上流に属する非ロシア人の異教徒もいたということだと思う。
レーニンもモンゴル人とのクオーターであったという。
冷戦の時代から刷り込まされてきた敵意により、かえって私たちの側にロシアに対する偏見が色濃く残っているのかもしれない。