メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

落語の「粗忽長屋」

昨年の12月から先月まで4ヶ月の間、毎月、31の記事をこのブログに掲載した。

過去の記事を引っ張り出して「再録」で済ませた例も少なくないが、休みの日に2~3の下書きを用意したりして結構苦労した。

これに大した意味はない。そのぐらいプレッシャーを掛けておかないと自堕落に陥ってしまいそうで、時々つまらない目標を作ってみるだけだ。

「4月1日」もなるべく何か書こうと努めているけれど、これはもっと難しい。パッと思いついた時はともかく、うんうん考えながら書いても全く笑える話にならない。

やっぱり、お笑い芸人というのは凄い人たちだと思う。多分、毎日のようにうんうん考えているに違いない。羽目を外して事件を起こしてしまう人がいるのも理解できるような気がする。

今年は「4月1日」のネタを2つ書いた。

実は後から掲載した「リモート結婚」の下書きを先に用意していたけれど、1週間ぐらい前になって、2回目のワクチン接種日は「4月1日」と伝えられたため、「コロナワクチン接種奨励プラン!」というネタをうんうんと考えてみた。ところが前々日になって、接種は延期されてしまった。

何だかワクチンも嘘になってしまいそうだ。

それから、「リモート結婚」の落ちは落語の「粗忽長屋」のパクリで、「粗忽長屋」では、行き倒れの死人を自分と思い込んだ粗忽者が、その亡骸を引き取って担ぎながら、「死んでるのは俺に間違いねえんだが、それを担いでいる俺はいったい何処の誰なんだろう?」という落ちがつく。

小説「魔の山」に、「私たちが生きているあいだは死は私たちに存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死とのあいだには実際的なつながりはすこしもなく・・・」なんて難しい話が出て来るけれど、「粗忽長屋」も「人は自分の死を認識できない」という問題を面白おかしく伝えているような気がする。

もっとも、落語のネタには中国の古典から引っ張って来た話も多いそうだから、「粗忽長屋」にもそういう典拠があるのかもしれない。