メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「悪い政治家」

《2017年3月23日付け記事を加筆修正して再録》

昭恵夫人はともかく、さすがに安倍首相は、長い政治活動の中で、胡散臭い奴をたくさん見てきただろうから、直感もかなり働くんじゃないかと思うけれど、なんとなく、育ちの良さに由来する「人の好さ」が感じられて仕方がない。
もちろん、育ちが良くても阿漕な奴はいるに違いないが、平たく考えれば、ああいう家に生まれた人は、あまりステータスや生活の豊かさに憧れたりしないだろう。そんなものは、子供の頃から空気のように存在していたはずである。
却って、貧しくとも勝手気ままな人生を送りたいなどと願望していた時期もあったのではないか。それこそ、私のような人間は「羨ましい存在」だったかもしれない。

それなのに、何故、嫌悪すべき人間であるかのように非難する人たちがいるのだろう?
そもそも、安倍さんがいなくなったところで、政治の流れが大きく変動するとも思えない。特に日本のような社会では、何一つ変わらないような気もする。

2008年12月の「犠牲祭」に纏わるコラム記事で、ヌライ・メルト氏は、「ある人々(我々も含む)が、より快適な生活を営む為の代償を、他の人々が貧困と挙句の果てには命によって支払っている連鎖の中にいることを考えなければならない」と述べていた。
おそらく、安倍さんも私も同じ連鎖の中にいる。それぞれに、重要性や役割分担の違いがあるとしても、皆、そういった連鎖の中の一つのパーツに過ぎないのではないか? 
また、日本の場合、如何に重要なパーツであっても、社会の中でそれほど大きなウェートを占めてしまうことはなさそうである。
トルコでは、エルドアン大統領のウェートが少し大きいような気もするけれど、パーツの一つに過ぎない点は変わらないと思う。

だから、世の中を少しずつでも改革しようと望むなら、歴史的な社会の成り立ちから考えて行かなければならないものの、これでは話が難しくなるため、どうしても特定の人物に対する批判で済ませてしまいたくなる。

メルト氏の「犠牲祭」に纏わるコラム記事には、以下のような記述もあった。

「・・・モダンな人間として、死を頭の片隅から遠ざける為に、あらゆる方法を駆使する。もっと悪いことには、人の命を奪う戦争について正しく追究する代わりに、“戦争反対”と言って自分自身を慰めようとする。死をもっと真摯に考えていれば、こういう風にはならなかっただろう。戦争は、数人の狂った、或いは悪質な政治家の所業であるという虚構に逃げ込もうとしなければ、自分自身の責任にもっと気がついただろう」。

人間は、誰もが自分は正しく善でありたいと願っている。

世の中が良くならないのは、「悪い政治家」の所為にしておいた方が、精神衛生上、遥かに好ましいのかもしれない。

そのために、「悪い政治家」を激しく非難したり、辞任を要求したりする。

しかし、それでは何も変わらない。メルト氏が述べた通りではないかと思う。