メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「日本と韓国を繋ぐ橋」

《2016年1月31日付け記事の再録》

大阪に住んでいた“1996~8年”、韓国居留民団の某支部事務所へ度々立ち寄っては、役員のHさんから色んな話を伺った。
この支部事務所を最初に訪れたのは、どういう経緯だったのか、ちょっと覚えていない。何か問い合わせるために赴いたのか、あるいは、たまたま通り掛かりに入ってみただけかもしれない。
Hさんは、当時、63~4歳ぐらいではなかったかと思う。年の離れた若い私を、初めてお会いした時から、親しい友人のように遇して下さった。私の履歴をあれこれお尋ねになることもなかった。
お生まれは韓国で、1958年、24~5歳の頃に、日本へ密航して来たそうだ。「あの時代は、簡単に密航できたのです」と事も無げにお話になっていた。
日本統治時代に受けた教育は、おそらく小学校までのはずだけれど、韓国にいた頃から日本語には全く不自由していなかったという。
そして、Hさんは、韓国で理科系の学部を卒業したものの、朝鮮戦争で疲弊し切っていた韓国には、これといった職もなく、その頃は未だ「内地」という認識だった日本へ渡らなければと決意したそうである。
高度成長に沸く当時の日本は、理科系技術の専門知識があれば、密航者も履歴などは適当にごまかして、簡単に職が見つかったらしい。Hさんも、直ぐに工場で技術者として働き始め、在日韓国人の女性と結婚して、「在日韓国人」の身分を確保する。
「結婚する日にね、女房はチマ・チョゴリ着て梅田の駅から出て来たんですよ。私は恥ずかしくなって女房を叱りつけ、駅の便所で着替えさせました。今から思えば、私の行いこそ恥ずべきものでした」
とりとめもない雑談の中で、こんなお話をたくさん聞かせて頂いた。しかし、メモなど取っていないから、特に興味深かった幾つかの例を思い出すだけである。
1998年の夏、私はトルコへ再び渡航するため、大阪を離れた。その後、一時帰国した際に、大阪まで出掛けたのは、翌1999年の春、あとは2月から7月まで約半年日本に留まった2003年しかなかったように思う。
非常に曖昧な記憶だが、おそらく、その1999年の春だろう。私は、支部事務所へHさんを訪ねた。
事務所にHさんの姿はなく、「H先生は・・・」と訊いても、「そういう人はいませんが・・」と首を傾げている。そのため、もう少し詳細を伝えたところ、「ああ、Kさんですね?」と通名の日本姓を確認しようとした。どうやら、居留民団の内部でも、お互いを通名で呼び合っていたらしい。
それから、Hさんが、癌で入院中であることを告げられた。真っ青になって、病院の場所を教えてもらい、直ぐにそこへ向かった。
Hさんのベッドは、大部屋の奥の窓際だった。カーテンは開け放たれていて、すっかり痩せ細ったHさんが、ベッドの上に胡坐をかいて本を読んでいるのが見えた。
ちょっと息を飲んで、挨拶の言葉を考えていたら、気配に気付いたHさんがひょいと顔を上げ、「ああ、新実さんじゃないですか?」と微笑んだ。
Hさんは、「よく訪ねて下さいました」と喜び、わざわざ階下の食堂まで降りて、そこでお茶を飲みながら1時間ぐらい話し、帰る時は、病院の入り口まで私を見送って下さった。
そして、これまた良く思い出せないが、多分、トルコへ戻った後だろう。私は、Hさんから手紙を頂いたのである。直接だったのか、日本の実家を経由していたのか、手紙を見れば確かめられるけれど、先ほどイエニドアンの我が家の中を探しても、Hさんの手紙は見つからなかった。
あれが、1999年の春ならば、トルコへ戻って、その夏、クズルック村に落ち着くまで、私は住所不定のような状態だった。友人の住所を伝えてあったのだろうか? あるいは、トルコへ出発する前、実家へ届けられた手紙を受け取っていたのかもしれない。
手紙は、便箋2枚ぐらいに、見事な素晴らしい達筆で認められていて、日本文の中に所々ハングルの文章が出て来る。例えば、「韓国の諺に“〇〇〇〇”と言うではありませんか。」というように、韓国の諺はそのままハングルで記されていたのである。そのハングルもまた素晴らしい達筆だった。
Hさんは、退院できたら、韓国の郷里へ帰りたいと書いていた。私は直ぐに返事を書かなければと思いながら、「まず、この住所不定状態を脱してから」とか、またつまらないことを考えて愚図っていたのだろう。なんと恐ろしいことに、結局、手紙は出さずじまいだった。
多分、半年ぐらい経過してからは、「Hさん、未だ御存命だろうか?」などと要らぬ心配ばかりして、そのまま歳月が流れてしまったようである。
その後も何年かの間は、病院を訪れたのがいつで、どの住所へ送られた手紙を頂いたのか等々、克明に覚えていたはずだが、10年以上過ぎて、ふと思い出そうとしてみたら、記憶は全てあやふやになっていた。
Hさんの手紙は日本の実家に保管してあると思うけれど、今、あやふやな記憶を辿りながら、返事も書かずに忘れてしまった自分を恨み、悔悟の稔に駆られた。
せめて、これからも韓国語を忘れてしまわないように努め、韓国の友人たちの付き合いを末永く続けて行こうと思う。