メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

西欧や日本は没落を迎えるのか?

小説「魔の山」に描かれた100年前の西欧、小説の舞台が結核サナトリウムであるように、当時、未だ予防接種も治療薬もなかった結核は「死病」と恐れられ、現在のコロナとは比較にならないほどの死者を出していた。また、結核は高齢者に限らず、多くの健康な若い人たちの命をも奪っている。

ところが、「魔の山」を読む限り、この死病に対して大掛かりなロックダウンや面会も謝絶する隔離が実施された様子は見られない。人々は自由に往来し、サナトリウムには近親者が気軽に面会に訪れる。

もちろん、ロックダウンで人々の往来を妨げ、罹患者の完全な隔離を実施していれば、あれほどまでに感染が拡大することはなかったかもしれない。コロナも野放しにしていたら、かつての結核以上の「死病」になっているはずだという主張も可能だろう。

私にそういった医学的な問題は解らないが、私は当時の人々がこの「結核という死病」にそれほど不安を感じていない様子に驚かされた。

その頃、結核感染症であることは既に明らかにされていたのに、近親者は頻繁に面会に訪れ、患者と肌を触れ合い、会話を交わしている。

サナトリウムという「病気と死とに支配された世界」から出たハンス・カストルプが戦場へ向かってしまったように、「死」のリスクは結核に罹患しなくても至る所にあったため、人々の「死生観」は現在と大きく異なっていたのかもしれない。

魔の山」には、臨終の迫った患者に対してキリスト教の塗油式を執り行う場面も出て来る。司祭の姿に思わず取り乱してしまう患者を、サナトリウムのベーレンス顧問官は「そんな真似はやめてもらいましょう!」と怒鳴りつける。

当時の死生観に、宗教が影響を及ぼしていたのは確かであるような気がする。現在は、キリスト教の西欧のみならず、例えば、イスラム教のトルコでも、宗教はかつてほどの影響力を持たなくなっているのではないだろうか? 

報道やSNSから得られる情報を見ると、トルコの人々は、信仰の如何に拘わらず、コロナに対してかなり神経質になっているようである。

コロナ騒ぎがいつまで続くのか解らないけれど、ウイルスが変異して行くという性質などを考えたら、今後も毎年冬になる度に同じ騒動が繰り返される恐れもある。経済もどんどん疲弊して行くだろうし、人々は神経衰弱に陥ってしまうかもしれない。

私は「魔の山」を読みながら、またつまらないことを考えてしまったが、当時の西欧が結核の治療法が見つかるまで、10~20年に及ぶロックダウンで人々の往来を妨げていた場合、どうなっていただろう?

おそらく、海外への渡航が制限されるため、植民地経営などやっていられなくなったのではないか。戦争も起きない代わりに経済発展も止まる。植民地の国々はその間に独立を果たし、経済的な発展を遂げて西欧を凌駕する・・・などと想像したら、奇妙な興奮を覚えた。

しかし、「普通の生活に戻して経済を回した中国のひとり勝ち」なんていう説を見ると、これは現代でも有り得るストーリーなのかと思えてしまう。

「コロナは西欧の文明に対する自然のしっぺ返し」といった声も聞かれるけれど、これから数年に亘って、西欧や日本のような国々で人々の不安を取り除けない状態が続くのであれば、本当に没落して行く可能性はあるかもしれない。