1989~91年、東京は東池袋のアパートに居た頃の話である。
部屋は木造2階の四畳半一間でトイレも共同だったけれど、階下には年配の管理人さん夫婦も住んでいて何かと便宜を図ってくれた。
夫婦は、某仏教系教団の信徒と思われたが、入口に関連政党のポスターを貼るぐらいで、特に入居者を教団へ勧誘するようなことはなかった。
ところが、ある週末、私は銀行から金を引き出すのを忘れてしまい(当時、ATMコーナーも休日は閉まっていた)、土曜日の夕方に気がつくと所持金は5百円しかない。
その頃は外食ばかりで食料の買い置きも一切なく、月曜日の朝まで、5百円ではとても持たないため、管理人さんのところへ行って事情を説明すると、おばさんは「じゃあ、5千円ぐらい貸しといてあげようか」と5千円紙幣を差し出してくれた。
それで、礼を述べて受け取ろうとしたら、「ちょっと待って、来週は選挙があるんだけれど、協力してくれますよね?」と言いながら、おばさんは紙幣を引っ込めてしまったのである。
「えっ? それはちょっと・・・」
「それじゃあ、これは無かったことにしますよ」
「あのー、明後日、月曜日の夕方には必ず返しますから・・・」
「ということは協力してくれるんですね」
月曜日に返してしまえば、その次の日曜日のことはどうにでもなるだろうと思って、「まあ・・」とか曖昧な返事をすると、また紙幣を差し出してくれたので、そのまま有難く受け取った。
その5千円は約束通り月曜日に返し、次の日曜日の朝は選挙のことなど忘れて、遅くまで寝ていたところ、扉を叩くおばさんの声に起こされた。
そして、一緒に投票所まで行くことになったものの、その政党に一票投じようなどとは全く考えていなかった。
しかし、いざ投票所に着いてみると、まだ早い時間だった所為か、投票所はガラガラで、おばさんはピッタリ私にくっついて来る。
それでも、投票用紙をもらってからは、さすがに別々の記入コーナーへ入ったので、そこで『さて何処に入れようか』と考えたが、ふと何か気配を感じて、肩越しに振り返ったら、直ぐそこにおばさんの顔があり、険しい眼差しで私の手元を見つめているのである。
おばさんの顔の遥か後の方には、のんびりと談笑している選挙管理委員たちが見えたけれど、この違法行為に気がついている様子は全くない。
私は肩の辺りにおばさんの息遣いを感じながら、仕方なくその政党に記入して投票用紙を折り、コーナーから出た。おばさんは険しい視線のまま、「よし!」とでも言うように頷いてみせた。
情けない話だが、私もそのアパートに入居している以上、管理人さんとは揉めたくなかったのである。