メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

モーツァルトの死とレクイエム

《2014年2月16日付け記事を省略して再録》

今日「12月5日」はモーツァルトの命日だそうである。モーツァルトの死に関しては、あの「レクイエム」に纏わる伝説が知られている。

モーツァルトは、作曲に取り掛かっていたレクイエムを完成させることなく死んでしまったため、その未完のレクイエムには、死を予感していたモーツァルトの「魂の叫び」が込められているという。
岩波文庫の「モーツァルトの手紙」に、死期を悟ったモーツァルトが、脚本家のダ・ポンテに送った手紙というのが掲載されている。
「・・・自分の才能を楽しむ前に、終わったのです。それにしても生はあんなにも美しいものでしたし、生涯の道も、あのように幸運な前兆のもとに開かれました。しかし自分の運命は変えられません。・・・・・これで筆を置きます。これは(このレクイエムは)、私の葬送の歌です。完成せずにおくわけにはまいりません」
これを書いて三ヵ月後にモーツァルトは亡くなったそうだ。

私は、この部分を読んでから、レクイエムの冒頭3曲を聴き直して、思わず落涙してしまった。
ところが、「モーツァルトの手紙」の続きを読むと、どうやら上述の手紙は、後世に作られた贋物だったらしい。

モーツァルトの手紙」には、亡くなる50日前、妻へ送った“現存する最後の手紙”も掲載されているが、それは死の気配など微塵も感じられない暢気な内容である。

その1週間前の手紙には、“高価なチョウザメ”を食べたとか、“雄鶏を半分食べたが美味かった”といった快活で元気そうな話が綴られている。
歴史が伝えるところによれば、モーツァルトは、粟粒熱と言われる流行性の疾患により、2週間余り寝込んだだけで、あっけなく死んでしまった。

おそらく、未だ元気にレクイエムの作曲を進めていた頃は、死の予感などさらさらなかったはずだ。
レクイエムには、モーツァルトのそれまでの作品に見られない深みがあると評されているけれど、それは35歳になり、作曲家としての円熟期に差し掛かったモーツァルトが作曲手法を発展させた結果じゃないだろうか。
モーツァルトの人柄を伝える逸話は、下ネタの与太話が好きな助平男だったとか、酷い博打狂いで金銭感覚に乏しかったとか、いろいろ知られている。
その中で、私の最も気に入ったエピソードは、晩年のモーツァルトが、人気に陰りの見えてきたウィーンに見切りをつけ、イギリスでもう一花咲かせようと、一生懸命に英語を勉強していたという話だ。

ちょっとやそっとじゃへこたれない、とても前向きでプラス思考の人物だったのではないかと思う。だから、あれだけの仕事がこなせたに違いない。

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