メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

産廃屋の思い出/(7)ふざけるな?

《2008年7月の記事を書き直して再録》

 前回お伝えしたスコップを手にしての積み込み作業、あれは結構しんどかった。コンクリを破砕したガラが多かったものの、残土を積まされることもあった。

大概の場合、荷台の後ろと片側だけに高さ1mぐらいのベニヤ板を立てて積み込み、片側を板の高さまで積み上げれば一車分の伝票を切ってもらえたけれど、時には、「どうしても片付けていってくれ」と頼まれ、二車分もらって両側に板を立てて積むこともあり、この場合、残土やガラをその高さまで跳ね上げるのも大変だったし、両側から山に見えるまで積み込めば、おそらく積載をオーバーしていたんじゃないかと思う。

私は片側だったら一人で一時間半以内、両側でも2時間あれば積み切っていた。

夏場には馴れない運転手が卒倒してしまったこともある。でも、北海道の開拓村出身のヒロシマさんという先輩に言わせれば「こんなの開拓の仕事に比べれば屁でもない」そうだ。

ヒロシマさんは、私と7~8歳ぐらいしか歳が違わなかったはずなのに、「ラバを使った抜根という作業が大変だった」なんていう話を聞かされると、思わず「いつの時代の話だろう?」と首を傾げたくなった。

2005年、イスタンブールの海峡トンネル工事の現場で、ユンボが故障し、スコップで砂を積まなければならなくなった時、私もちょっと手伝ったけれど、ものの5分もしない内に息が切れ、膝頭が震え始めた。今、一車積み込まされたら、間違いなく途中でへたり込んでしまうだろう。

先輩のコジマさんなどは、恐ろしく積み込むのが早かった。コジマさんのダンプの荷台を傍から見ていると、早送りの漫画みたいに残土の山が出来上がって行く。

普通、スコップで土を跳ね上げる場合、スコップを差し込んで土を掬ってから、一度スコップを後ろへ引き、反動をつけて「エイヤッ!」とばかり跳ね上げるものなのに、コジマさんは殆どスコップを引くこともなく、そのままスッと持って行くのである。

ある時、コジマさんと一緒に現場へ行ったら、コンクリ・ガラをズタ袋に詰め込んだものが山になっていたけれど、ガラを袋の際まで詰め込んであるものだから、重いのなんのって、私がそれを抱えるように持ち上げてヨタヨタしながら荷台へ積み込んでいたところ、コジマさんは「おい、ニイノミ、無理せんで良い。こんなに詰め込みやがって」と作業を中断させて現場の監督を呼びつけ、「これは重すぎだよ、監督さん。試しに一つ持ってみなよ」と言った。

監督が袋を腰の辺りまで持ち上げて、「うわっ、こりゃ重い!」と呻くと、コジマさんは「それじゃあ、土方を出して詰め替えさせて下さい」と言い、監督の手から袋を奪うとそれを肩の上まで差し上げて、「エイッ!」と荷台へ放り投げたのである。監督さんは唖然とした表情で土方衆を呼び集めに戻って行った。

まあ、コジマさんは当時の私にとって、ちょっとしたヒーローに違いなかった。面倒見の良い優しい先輩だったけれど、中途半端な仕事は許さず、夜、ダンプのパンクをほったらかしたまま部屋へ上がろうとして、「今日の仕事は今日中に済ませて置け!」と厳しく叱りつけられたこともある。

もちろん、ダンプの積み込み作業がいつもこんなに大変だったわけではない。ユンボで積んでくれることもあれば、たくさんの土方衆が手伝ってくれることもあった。コンクリの型枠に使った木片ばかりなら、一人でもあっという間に積み終わってしまうし、今話題のアスベストなど、チクチクと痒くなっても、軽くて直ぐ一杯になるから私は大喜びだった。

しかし、私のような若い運転手は優先的に難易度の高い現場へ送られていたようだ。いつだったか2週間ぐらいの間、頻繁に阿佐ヶ谷の化粧品会社改修現場へ配車された。

そこへ行けば、いつも一人でコンクリ・ガラをスコップ積み。一日に3回行かされた時はさすがにうんざりして、その頃はコジマさんもいなかったし、『ひょっとして、この現場に来ているのは俺だけじゃないか?』と思い、積み切れずに残ったガラを特徴のある形に並べて置いたところ、2日ぐらいしてまた行ったら、そのままの形が保たれていたので監督さんを問い詰めると、私しか来ていないことを白状したうえ、配車係のヤノちゃんから「来ている運転手にはそれを言わないで下さい」と口封じされていたことまでバラしてくれた。

私は会社へ戻るまで、ハンドルを握りながら、『ヤノの野郎! 許さんぞ!』と怒りを充満させ、暗くなってから会社へ着くと、事務所の受付にぼんやり座っていたヤノちゃんの前でそれをぶちまけた。

「ふざけるのも好い加減にしろよ! あの現場には俺しか来てねえって言うじゃねえか?! くだらねえ嘘つくんじゃない!」

「まあ、そう怒りなさんなって。あんな現場に40歳過ぎたロートルを配車するわけにも行かねえだろ?」

「40過ぎたロートル? この会社で20代の運転手は俺だけか、他にはいないのか?!」

こうぶちまけながら、そういえば事務所へ駆け込んだ時に、20代の先輩であるオオシロさんの姿を見ていたから何気なく振り返ってみれば、オオシロさんはそっと事務所から出て行くところだった。

翌日、気分の落ち着いた私を呼び寄せたオオシロさんは、穏やかな口調に厳しさを潜ませながら語り出した。

「これは生活するための仕事で、学校の部活動じゃないんだ。コジマやヒロシマさんと同じようにやろうとしたら体を壊して働けなくなってしまう。無理なものは無理だとはっきり言わなければならない。お前は運転手って柄でもないから、この仕事を長い間続けようなんて思っちゃいないだろう。しかし、一生これでやって行くつもりなら、そして、これに家族の生活が掛かっていれば、体を壊してしまうわけには行かないんだ」。

私は大人しく頷きながらも、心の中では『オオシロさん、それはあんまりだ。私は別に一時的な気分でこの仕事をしているわけじゃないですよ』と口答えしていた。

しかし、そんな口答えが如何に空々しいものであるかは、この馬鹿タレがその後どうやって生きて来たのかを見れば解る。今でも一向にフリーター気分のまま、こんなところで御託を並べていれば世話はない。