メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

老人の説教-(感染症の流行っている地域に行ってはならない・・・)

《2014年10月18日付け記事の再録》

昨年(2013年)の2月頃だったか、ある出版社を訪ねて、そこの編集者と話していたら、彼がイスラムキリスト教を次のように比較したので、非常に興味深く感じた。
キリスト教には、感嘆を呼び起こし、人を興奮させる力があるようだ。これが彼らの発展に寄与したかもしれない。イスラムにそういう力は無いだろう。その代わり、人を無闇に興奮させる危険性もない。イスラム過激派は、宗教ではなく、何か他のことに興奮しているのではないか・・・」
この編集者氏は、30代半ばぐらい、殆ど信仰のないムスリムだったと思う。

司馬遼太郎が「論語」の英訳をアメリカ人に読ませたら、「インディアンの酋長の説教みたいだ」とつまらなさそうに言われたという話を、何か対談集のようなもので読んだ記憶があるけれど、このアメリカ人に、コーランハディース預言者ムハンマドの言行録)を読ませても、同じ答えが返って来そうな気がする。
私は数年前に、トルコの宗教教科書を訳した際、そこで取り上げられていたハディースをいくつか読んだぐらいで、何も知らないに等しいが、読んだ限りの印象としては、やはり「論語」と同様、“老人の説教”臭いものを感じた。
例えば、以下のようなハディースが、その教科書に出て来る。
「あるところにペストがあると聞いたら、そこへ行くのはやめなさい。また、あるところでペストが発生した時、そこに居たのならば、逃げ出すのはやめなさい」
これは、聖オマルがダマスカスを目前にして、ペストの流行を聞き、これを回避したという逸話と共に紹介されている。聖オマルは、「神の運命から逃げるのですか?」と抗議したアブー・ウベイデに対して、「その通り、神の運命から、神の運命へ逃げるのだよ」と答えたそうである。
トルコの“敬虔なムスリム”の友人たちの説明を聞いても、やはり上記のハディースなどが、とてもイスラムらしい発想であるような気がする。
また、キリスト教のように、「右の頬を打たれたら、左の頬を差しだしなさい」なんて無理な理想を掲げたりせずに、適正な報復を認めている。この報復については、「目には目を・・」などという言葉ばかりが知られているけれど、論語の言う「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」と同じように考えれば良いのではないかと思う。
このように、双方を表面的にざっと眺めただけの門外漢からすると、儒教イスラムは、ちょっと似ているように見える。孔子ムハンマドも老練な社会の指導者であったし、いずれも為政者の立場から教えを説いていたのではないだろうか。
そのため、問題を解決しようとして何かに挑むより、一歩退いて問題が起きないように努める。だから、理想に燃えるアメリカ人が見れば、「インディアンの酋長の説教」になってしまうのかもしれない。

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