メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

2016年7月15日のクーデター事件

以前、ホームページの「トルコ便り」に掲載した駄文の数々をこのブログに再掲載する作業を進めているけれど、ようやく2016年7月の分まで終えることができた。この先は、多少ましな駄文だけにして、あとは切り捨てて行くつもりである。

 2016年7月15日には、あの忌まわしいクーデター事件が発生している。そのため、事件前の暢気な記述も記録として残しておきたいと思い、切り捨てることなく全て再掲載した。

あのクーデター事件は、首謀者のギュレン教団系将校たちが軍から排除されそうになったため、計画を前倒しして、排除される前に決行したと言われている。さもなければ、あれほど杜撰なクーデターにはならなかったそうだ。

通常、クーデターを起こす前には、それが望まれる混乱した世相を作り上げておくものらしい。2015年~2016年にかけては、テロが頻発して、ある程度、そういう雰囲気にはなっていたけれど、クーデターまで望まれる状態ではなかった。

もちろん、おそらく意図的な前触れとしてクーデターの可能性は囁かれていたが、私は全く意に介していなかった。だから、まさしく突発的な出来事で大いに肝を潰してしまった。

 事件以降も、与野の協調やクルド和平を期待して、今にして思えば随分的外れな話を書き続けている。さらに、翌2017年の4月にトルコを離れてからは、現地の状況が見聞できないため、一層的を外すようになった。今年の地方選挙もそうである。都市の住民たちをうんざりさせた長引く不況の雰囲気が解っていなかった。

 しかし、一方、全国では相変わらず与党AKPが過半数の票を得ているのだから、以前、何度か取り上げた「トルコの人たちは経済的な利益に敏感」といった話も少し考えてみた方が良いかもしれない。

 地方には、国難云々の熱気に我を忘れた人たちも多かったような気がする。もっとも、そうでなければ国難を乗り切るのは難しいだろう。

2015年より前になると、今度は状況が数年の内に変わって来たので、現時点から振り返った場合、これまた頓珍漢に思える記述が出て来る。これも切り捨てずに残しておきたいと思う。

 しかし、この20年来、トルコは大きく変わり、その変化も非常に錯綜していたから、的を外さないで見極めることなど無理だったに違いない。

 政教分離主義とイスラム主義の相克であるとか、グローバル派と民族派の対立などと言われたりしていたが、実際はそう簡単に色分けできるものじゃなかったはずだ。

 イスラム主義と政教分離主義で両極にいると思われていたエルドアン氏とバイカル氏が、既に2003年の段階で密かに重要課題を話し合っていたという話にも驚かされたけれど、政治家や官僚、軍人といった実務に携わっている人たちは、イデオロギー的な論争をよそに様々な関係を築き上げていたとも考えられる。

冷戦終了後、米国が大中東プロジェクトなるものを掲げて中東の再編に乗り出そうとしていたこと、その過程でペンタゴンにはトルコの南東部をクルディスタンとして独立させた地図が堂々と張り出されていたこと、これは皆、私でもトルコの報道を通して15年以上前に知り得た話ばかりである。

 現実的なエルドアン氏が「クルド和平プロセス」にどのくらい期待を寄せていたのか、今となっては解らないような気もする。プロセスの凍結は想定内のことだったかもしれない。それでも、クルド語の教育等は実現しなければならなかっただろう。

 ギュレン教団に関しても、当初、軍は米国の圧力により公然と受け入れてしまったという。ならば、その後の浸透にも全く気が付いていなかったとは思えない。米国との関係があるから、排除したくてもなかなか出来なかったのではないか。また、2013年までの経済成長には、ギュレン教団の力も大きかったはずである。さて、これからどうなるのだろう?