メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「トルコは競争社会にならなければならない」?

トルコでは、イブン・ハルドゥーンという14世紀のイスラム学者の名を冠した大学が新設されたため、「イスラム化の動きか?」といった議論が巻き起こっていたらしい。
これに対して、サバー紙のハサン・ビュレント・カフラマン氏は、5月24日付けのコラムで、かつては左派の知識人がイブン・ハルドゥーンを持て囃していた事実を明らかにしながら、左派と保守派の不毛な議論を嘆いていた。
カフラマン氏の記述によれは、イブン・ハルドゥーンの思想には、マルクス主義に相通じる部分が多く見られ、これを左派の知識人が好んで取り上げていたそうである。
ところで、私のような門外漢からすると、他にもイスラム的な発想の中には、社会主義を信奉する人たちの喜びそうな面が少なくないような気もする。
イスラムでは、富裕者らにザカートという一種の救貧税が奨励されているし、ラマダンや犠牲祭でも、貧困者の救済が謳われている。
左派の人たちの中からは、イスラム主義者らが、こういった美徳の実践を怠っていると糾弾する声も上がっていた。
実際、イスラムの復興に尽力したとされる故オザル大統領は、「トルコは競争社会にならなければならない」と主張しながら、民営化を進めようとしていたのである。
オザル大統領の後継者と言われる現エルドアン大統領も、非常にイスラム的でありながら、民営化の促進や、グローバル経済への適応という面では、とても資本主義的な傾向を見せている。
もちろん、貧民街の再都市化など、貧困層の救済にも努めてきたけれど、これも民営化等による経済成長に支えられたからこそ実現可能だったのではないだろうか?
70~90年代に活躍した左派の代表的な政治家である故ビュレント・エジェビット元首相は、公正で平等な社会の理想を掲げたばかりか、自身も清貧に徹して、模範的な社会主義者ように暮らしていたという。それは、一方で、模範的なイスラム宗教者の生活と言えたかもしれない。
ところが、エジェビット元首相の理想は、経済の不調により達成されなかった。
ここで私が気になるのは、オザル大統領も「競争社会」をわざわざ主張しなければならなかったように、「持ちつ持たれつ」といった美徳を強調する余り、トルコの社会に「競争」を嫌がる傾向が見られる点である。
その傾向は、左派にもイスラム的な人たちの間にも、同様に広がっているような気がする。そもそも、左派であれイスラム的であれ、同じ社会の中で育った人たちであり、伝統的な価値観をある程度共有してきたのではないかと思う。
しかし、「幸い」と言ってはなんだが、トルコはますます産業を発展させながら、望むと望まざるとに拘わらず、いよいよ「厳しい競争社会」になりつつあるかもしれない。
弱肉強食の恐ろしい国際社会で生き残るためには、他に選択肢もないだろうけれど・・・。

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