メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

フェアトレードのチョコレート

フェアトレードという運動を、私は昨年辺りになって、ようやく教えてもらった。もう随分前から話題になっていたらしい。

チョコレートの原料となるカカオ豆は、アフリカや南米で生産され、その農場では、多くの児童が奴隷のように酷使されている例も少なくないそうだ。フェアトレードは、そういった児童を救うための運動であるという。

この運動自体は称賛に価するのではないか? 偽善と言って批判する人たちもいるけれど、偽善を排除したら、この世に「善」など残らないだろう。

とはいえ、フェアトレードのカカオ豆が原料のチョコレートを選ぶことで、自分の善意に満足してしまう人がいるとしたら、ちょっと考えてみたくなる。

カカオ豆の生産に始まり、チョコレートが消費者の手に届くまでの過程で、悲惨な犠牲を強いられているのは、カカオ豆農場の児童だけではないはずだ。

おそらく、石油がなければ、加工も輸送もままならないと思うが、中東では石油の利権をめぐって、何の罪もない人々が何百万と犠牲になっている。

日本は、戦後、欧米が軍事力等を背景に拵えた国際秩序の中で、世界の貧困地域の犠牲の上に、相当な恩恵を得てきたと思う。石油資源もそのお陰で、滞りなく調達されてきたような気がする。

しかし、私たちは、なるべくそういった犠牲から目を背け、自分の善意を信じていたいのだろう。そのために、宗教が必要とされたのかもしれない。

世俗化した現代社会で、人々は、フェアトレードのチョコレートを求めることによって、宗教に代わる救いを感じているのではないだろうか。

もしも、そうであれば、有難い話だが、宗教も過剰になると問題であるように、こちらにも同様の危険性が潜んでいると思う。

人間の欲望が衰え、競い合わなくなった社会は停滞する。欲望があるからこそ、人は「正しさ」や「善」も切磋琢磨しながら追求して来たに違いない。

ところが、誰よりも自分が正しく善でありたいという欲望が極まれば、果てしないイデオロギー闘争、あるいは殺し合いに至ってしまうのではないか。

宗教戦争もこれと変わらないが、本来は、「絶対善」としての神を置くことにより、人間を抑えようとしたはずである。

ローマ法王を頂くカトリック、宗務庁が管理するトルコのイスラムなどは、それが巧く機能している例と言っても良さそうだ。

夏目漱石が「行人」の「山を呼び寄せるモハメッドの話」で説いたように、人が心安らかに過ごそうと望むなら、山は動かないものと諦めるか、自分が山の方へ歩いて行くのか(つまり宗教に入信する)、そのどちらかであるのに、動かぬ山に向かって「来い!」と叫びながら、地団駄踏んで悔しがっている人たちが増えて来たような気がしてならない。