(1月17日)
イスタンブールのナイトクラブを襲撃した犯人が逮捕され、トルコは言うまでもなく、日本のメディアでも取り上げられている。
メディアに掲載された写真を見ると、犯人の顔には殴られたような痕があり、実際、犯人の顔が足で踏みつけられている写真もあった。
なんだか、人権無視の“見せしめ”として、写真が公開されたのではないかと思えてしまうが、フェイスブックなどを見る限り、トルコでは、左派も保守的な人たちも、概ね、これを容認しているような雰囲気である。
39人も殺害した凶悪な犯人は、このぐらいの仕打ちを受けても当然ということなのか?
死刑制度のないトルコでは、如何に許し難い罪を犯したとしても、終身懲役以上の刑はないため、こうでもしなければ、人々が納得しないということなのかもしれない。
ところで、ひと頃大騒ぎになっていた「死刑復活」の議論は、いったい何処へ行ったのだろう。現在、憲法改正の審議が進行中というのに、死刑復活は議題にも上がっていないようである。トルコの人たちの切り替えの早さには、いつもながら驚かされてしまう。
犯罪者への“見せしめ”と言えば、1991年当時、イズミルに滞在してた日本人の友人から、こんな話を聞いたことがある。
友人夫婦が、イズミル近郊のビーチへ海水浴に出かけたところ、ビーチに窃盗犯が出没し、彼らも被害にあってしまった。その後、犯人が捕まったという知らせを聞いて、最寄りの警察署を訪れると、担当官は、留置場から犯人を呼び出し、友人夫婦の前で、その男を殴打し始めたという。
友人が慌てて、「止めてください」と叫んだら、担当官に、「えっ、もっと殴りますか?」と聞き返されたそうだ。おそらく、犯人は被害者が現れるたびに、そうやって“見せしめ”に殴られていたのではないかと友人は回想していた。
さすがに、トルコで、こういった“見せしめ”は既に行われていないだろう。
しかし、世界に目を向ければ、この15年ぐらいの間にも、凄まじい“見せしめ”が、アメリカという“文明国”によって実施されている。サダム・フセインの捕縛から処刑まで、そして、ビン・ラディンの謀殺は、“見せしめ”以外の何ものでもなかったと思う。
特に、オバマ大統領は、口先で「核廃絶」とか聞こえの良い話ばかりしながら、平気で恐ろしい謀殺を指示していたらしい。そもそも、殺されたのは、本当にビン・ラディンだったのだろうか?