メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

マイノリティの最も真実的な試験 / 偽りても賢を学ばんを賢といふべし

 2014年の8月、「マイノリティの最も真実的な試験」というエティエン・マフチュプヤン氏のコラム記事(アクシャム紙-2014年8月24日付け)の後半部分を拙訳して、この欄に載せたけれど、非常に興味深い記事なので、今日、再びご紹介したいと思う。

この記事は、「マイノリティの最も真実的な問い」(アクシャム紙-2014年8月3日付け)という以前の記事に対する反発に応えるかたちで書かれたようである。

自身がカソリックアルメニア人というマイノリティであるマフチュプヤン氏は、トルコの社会が新たに形作られる過程で、マイノリティたちが何をやらなければならないのかを説いている。

*******************(以下拙訳)

〈前略〉
必要なのは、相手に胸襟を開くことである。そして、これがあの記事のもう一つの問題に我々を導いてくれる。

マイノリティ(ユダヤ人・キリスト教徒など非イスラム教徒のトルコ国民)の社会は、過去200年に亘り、自分たちの頭の中でムスリムを見下した認識、観点、言説を育てて来た。彼らが無知で無作法で発展できなかったという確証に基づいた決まり文句を繰り返すことで、気持ちを楽にしてきたのである。

友人として自分たちの側に招き入れたムスリムと他のムスリムを分けて考えた。問題は、「政教分離」と「敬虔な信仰」の対立の中で解決された。この枠組みに入るムスリムたちは、西欧の作法を身に付け、国家主義的な保守性とも距離を置く人たちだった。しかし、この人たちは、同時に庇護的な体制のお陰で命脈を保っていたのである。

その体制が崩壊することにより、この人たちの階層も隅に追いやられ、影響力を失った。こうして、マイノリティたちは、いきなり多数派の“敬虔なムスリムたち”と向き合わなければならなくなった。

今日、マイノリティたちは自らを社会に解き放って、ムスリムたちに「そうです。我々は貴方たちを見下していました。しかし、正当な理由があったのです」と言わなければならない。

抑圧され、強制移住され、殺され、財産を奪われ、徐々に少なくなり、無視された人々が、マジョリティに対して何を考えられるだろうか?

ムスリムたちを頭の中で見下すことが、マイノリティたちを心理的に立ち直らせ、一息ついて自尊心を回復し、いくらかでも真っ当な人間として感じられるようにさせたのである。

今日、これを勇気をもって説明し、分かち合わなければならない。何故なら、既に我々の向こう側には、これを聞くことを望み、我々と共に悲しみ合う準備が出来た“新しい社会的な階層”がある。そして、この国を新たに建設するのである。

私が書いた記事に寄せられた最も多い反発の一つは、これによって扇動された無知な民衆がマイノリティに危害を加えるだろう、というものだった。これを主張する人たちは、おそらくムスリムたちが無知である為に、記事の内容を理解できない、あるいは本質的にそういう態度を取るだろうと仮定したようだ。

しかし、彼らは、私の「見下してきた」という分析に抗議しながら、未だに同じことをやっているのに気が付いていない。

あの記事を書いて以来、3週間が過ぎた。私の記事に扇動され、辺りを攻撃したムスリムの例は一つも聞いていない。しかし、数多のマイノリティと左派知識人は、充分に扇動されて、ソーシャル・メディアであからさまに民族主義的な言説により、私に襲い掛かることを当然と思ったようである。

何故なら、露見されてしまったという感情は、なかなか扇動的であり、充分に成熟した人間でなければ、攻撃的になってしまう要因になるからだ。しかしながら、我々の真実を我々が打ち明けることで、通常、相手側が扇動されたりはしない。お互いの距離が縮まるだけである。

マイノリティの態度は、その集団の構造が国家によって守られている時代には有効だった。しかし、一つの社会になろうとするダイナミズムが歩みだした今日では、既に時代錯誤であり、有害である。

同胞になるためには、単に権利を主張し、被害者意識に寄りかかっていても無理である。社会が形成されて行く過程の中にいなければならない。

***************(以上拙訳)

私の偏見かもしれないが、既存の権威に対する抵抗として生まれたキリスト教と違って、イスラム教は、元々為政者の側に立っているように見える。そのためか、権威に対する反抗は悉く戒められているという。

異教徒が支配する社会で、イスラムの信仰を実践することにより、身に危険が及ぶのであれば、“タキーヤ”と言って、その信仰を隠すことも認められているそうだ。

だから、異教の権威・為政者に抵抗して殉教する必要などないらしい。しかも自殺は固く禁じられている。これでは、“自爆テロ”など沙汰の限りとしか考えられないだろう。

しかし、イスラムの社会が異教徒の攻撃さらされた場合は、聖戦を認めており、決して“平和主義”を謳っているわけじゃない。なんだか、イスラムという宗教は、人間のやりそうなことを、大概、最初から認めているような気がする。

イマームイスラム教導師)の婚姻も認められていて、キリスト教に比べたら、それほど禁欲的ではないと言えるかもしれない。

 イスラムのテロの背景には、多くの識者が指摘しているように、ムスリムである為に西欧の社会で受けた差別等があるのではないかと思う。

「 マイノリティの最も真実的な試験」で、エティエン・マフチュプヤン氏は、トルコのマイノリティが、イスラムを見下すことによって自尊心を回復したと説明しているけれど、果たして西欧のマイノリティであるムスリムたちは、キリスト教を見下すことによって、自尊心を回復することが可能だっただろうか?

経済、科学、芸術のあらゆる分野で差をつけられているため、嫉妬やコンプレックスは感じたとしても、見下すのは難しかったに違いない。

“タキーヤ”によって自らを偽ろうにも、心に受けた傷は覆い隠せないほど大きかったかもしれない。でも、何とか自分を偽る方法を見つけるべきだった。

13世紀のイスラム神秘主義者メヴラーナは、「あるがままに自分を見せよ」と言ったらしいけれど、この発想は余りイスラム的じゃないような気がする。

そもそも、自分をあるがままに見せられる人間は、この世にどのくらい存在するのだろう? 私がそれをやったら、たちまち「変態」の烙印を押されてしまうと思う。

メヴラーナから80年ほど後れて、遠く離れた日本に生まれた吉田兼好は、徒然草の 八十五段に、「人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず」と書き、以下のように結んでいる。私はこの件を読むと、良く解らないまま、なんとなく安堵する。

「・・・狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」

 

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