メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

葬儀の作法も解らなくなった人たち

一昨日(10月15日)、またテレビドラマのエキストラに駆り出されて、ヨーロッパ側のボスポラス海峡沿いにあるクルチェシュメという街に出かけて来た。
撮影は、正午過ぎから、海峡に停泊している小型クルーザーの中で行われたけれど、途中、近くのモスクから、かなり長い祈祷の朗誦があり、暫く撮影を中断していた。録音に祈祷の声が入ってしまうからだ。
昼の礼拝を呼びかけるアザーンは、その少し前に聴こえていたので、私は『おそらく葬式の祈祷だろう』と思っていたが、トルコ人のスタッフらは、撮影の中断に苛立ちながら、「なんて長いアザーンだ!」とか「また“セラ”を詠んでいるのか?」などと口々に文句を並べていた。
葬式の祈祷も“セラ”には違いないが、最近は「7月15日のクーデター」に抵抗を呼びかけようとしてトルコ各地のモスクから一斉に“セラ”の祈祷が朗誦されたため、反エルドアン的な左派革新の人々の間で、“セラ”に対する誤解と反感が増大していたようである。
私が「葬式じゃないですか?」と訊いても、「アザーンだ」とか、「いやセラだ、コーランだ」とか言いながら否定していた。中には、「最近、イスラムの連中は、何か悪いことすると、時と場所を弁えずに、ああやって祈祷して、神に許しを請うそうですよ」なんて、まことしやかに解説する人もいた。
2時半~3時頃に撮影が終わったので、私はベシクタシュへ出ようと思って、海峡沿いの道を歩き始めたが、いくらも行かない内に、小さなモスクの前を通りかかった。
多分、さきほどの祈祷は、ここで朗誦されていたのだろう。モスクの前にはテントが設置されていて、そこで葬儀後の食事が振舞われていた。
私が「葬儀ですか、ご愁傷さまです」と挨拶したところ、「ありがとう、貴方も召し上がって下さい」と年配のご婦人から食事を勧められた。丁重に断ると、今度はもう少し若い女性が、きれいな英語で同様に繰り返した。
クルチェシュメは、かなり高級な住宅街なので、そのモスクの葬儀に集まっていた人たちからも、教養と品の良さが感じられた。信仰心の強い人は余りいなかっただろう。葬儀のイスラム的な作法が解らずに戸惑ってしまった若い人もいたかもしれない。
トルコには、私と同年配(50代後半)であっても、生まれてこのかた礼拝など一度もしたことがなく、礼拝の作法も知らないというイスラム教徒が少なくない。
さすがにこの歳になれば、親族の葬儀に何度か参列する機会もあっただろうから、葬儀の作法ぐらいは解っているはずだが、若い頃は、やはりアザーンも葬儀の祈祷も区別できなかったりしていたのではないか。
しかし、外国人の私でさえ、「葬儀の祈祷だ」と気が付いたのに、彼らは、おそらくイスラムに関するあらゆる情報を最初から遮断しているのだろう。自分たちも死んだら、同様にイスラムの葬儀で弔われるはずなのだが・・・。
こういう人たちは、共和国になってから現れたわけでもないらしい。ノーベル文学賞オルハン・パムク氏が、自分の祖父世代の家族史を描いた「ジェブデト・ベイと息子たち」(半分ほど読んで放置)にも、オスマン帝国の末期、モスクへ足を踏み入れたこともなく、葬儀の作法が解らなかったというパムク氏の御先祖の姿が描かれている。
と言いつつ、実を言えば、私も日本の冠婚葬祭が良く解っていない。父は家長だったはずなのに、親戚付き合いを疎かにし、僧侶と神主さんを毛嫌いしていたので、積極的に冠婚葬祭へ関わることがなかったのである。
父の家は料理屋で、頻繁に結婚式を執り行っていたため、神主さんとは絶えず交渉があり、お寺とも檀家総代の立場だったから、当然、付き合いは多かったに違いない。「坊主と神主は金ばかり欲しがる」と偉そうに文句ばかり言ってたけれど、そこには何となくリベラルぶって格好をつけていた雰囲気も窺われた。
父は、戦前の世代であり、戦前に美味しい思いをした所為か、戦後派のリベラルとは少し異なるものの、大した知識もないのに、親米保守とリベラルの良いとこ取りしながら、あたかも進歩的な人間であるかの如く気取っていた。もちろん、倅の馬鹿さ加減は、親子二代を経て一層進化している。
なんだか、オスマン帝国以来のトルコにも、戦後の日本にも、進歩というのを何処かで履き違えてしまった人たちが少なくないような気がする。