メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ローザンヌ条約は勝利だったのか?

10月中に終わる予定だった非常事態宣言は、どうやらもう3ヶ月延長されるようだ。
宣言発表の当初から、「3ヶ月では無理」という声が高かったくらいで、それほどの騒ぎにはなっていないものの、「1か月半で済ませる」などと明らかにしていた政府の見通しは余りにも甘かったと言わざるを得ない。
それよりも、トルコのメディアでは、一昨日の「ローザンヌ条約は勝利だったのか?」というエルドアン大統領の発言が、もっと大きな話題となっている。
発言の中で、エルドアン大統領は、ローザンヌ条約でエーゲ海の島々も割譲されたかのように述べているけれど、島々がギリシャ領になったのは、1913年のことであり、ローザンヌ条約とは関係がなかったらしい。そのため、大統領の認識不足が指摘されて余計に盛り上がってしまった。
一方で、入念に準備された発言ではなさそうなことから、「話題を逸らすための“目くらまし”発言じゃないのか?」と穿った見方をする識者もいる。
いずれにせよ、この発言に纏わる議論がそれほど長く続くとは思えない。もともと議題を提起しようとした発言でもなく、社会の隅々にある不満の声を代弁して、不満解消を図ったということなのかもしれない。
でも、よく解らないのは、オスマン帝国を懐古する保守派の多くがローザンヌ条約に不満を持ち、アタテュルク主義者の多くは却ってこれを擁護しているところだ。
ローザンヌ条約を締結した当事者は「アタテュルクの共和国」だったかもしれないが、その責任はオスマン帝国にあったような気がする。誕生したばかりのトルコ共和国は、この条約で、言うなれば「オスマン帝国の尻拭い」をさせられたのではなかっただろうか?
そもそも、オスマン帝国が西欧列強に押し付けられたセーブル条約を認めてしまったため、これに反対したアタテュルクを始めとするオスマン帝国の有志軍人らが、救国戦線を戦って共和国を建国したのである。
セーブル条約締結時のオスマン帝国宰相ダーマート・フェリト・パシャは、共和国以降の進歩主義者も顔負けの「西欧かぶれ」だったらしい。タンジマート以来の西欧に倣った改革が、なかなか富国強兵にならなかったのは、この辺りに要因がありそうだ。
明治の日本もオスマン帝国も、西欧に対抗できる力をつけようとして、西欧化を進めたはずだが、途中から西欧化そのものを目標にした人たちが現れてしまったのかもしれない。
日本の先人たちは、それでも富国強兵を実現して西欧に対抗し、太平洋戦争に敗れた後も、技術力と経済力を高めて何とか踏ん張ろうとした。そのお陰で、私も今まで楽に生きて来られたと思う。残念ながら、トルコの産業化は、今でも外国の技術に頼りっぱなしである。

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