メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコはまたしても土壇場で強さを見せた

20年ぐらい前だと思うが、日本の雑誌か何かに載っていた西欧の小説の一節を読んでいて、登場人物のセリフに驚いた。
「世の中には信じ難いこともある。例えば、トルコという国が未だ滅んでいないように・・・」
こんなセリフだったと記憶している。トルコとは何の関係もない話の中に出て来たので、余計に驚いてしまった。西欧にはこんな風に考えている人が少なくないらしい・・・?
実際、オスマン帝国の崩壊からトルコ共和国の誕生へ向かう時代に、ロシア革命といった様々な要因が重なっていなければ、救国戦争を戦った人々の奮闘もむなしく、セーブル条約が覆ることはなかったかもしれない。
もしも、セーブル条約のもとで、トルコ共和国に、アナトリア西部の僅かな領域しか残されていなかったとしたら、その後も干渉され続けた挙句、滅んでしまっていたのではないか。
オスマン帝国は、様々な言語が行き交う多民族国家だったため、西欧の人たちは、アラブやクルド人民族意識を煽れば、簡単に分裂すると思っていたのだろう。
ところが、歴史はそうならなかった。分裂の要素と考えられていたクルド人の中からズィヤ・ギョカルプが現れ、“トルコ民族主義”を唱えて、人々に団結を呼びかける。そして、救国戦争に勝利したトルコは、セーブル条約を覆して分裂を免れたのである。
歳月が流れ、2013年の3月21日、この日に至るまで分裂の危機は絶えず潜在していた。
しかし、トルコ共和国からの分離独立を掲げながら、武力闘争を繰り返して来たPKKのアブドゥッラー・オジャランは、この3月21日のネヴルーズ祭に、収監されているイムラル島の刑務所から声明を発表し、武力闘争の放棄と「クルド人トルコ人の団結」を訴える。
イスラムの旗の下、千年に亘って共に暮らしてきたクルド人トルコ人・・」と謳いあげ、「我々を分断しようとする西欧の帝国主義者たち」に対して団結を呼びかけたのだから、西欧の人たちも驚いたに違いない。

あの日の興奮と喜びは未だに忘れられない。クルド人の中心都市ディヤルバクルはお祭り騒ぎだったという。
2ケ月後の5月、トルコはIMFの債務も完済する。なんだか、トルコの未来が急に明るく開けて来たように感じたものだ。今振り返ると、あれは束の間の夢のように思えてしまうが・・・。
そう、まさしく束の間である。ひと月も経たない内に、ゲズィ公園騒動が始まり、それから3年というもの、トルコは何度も悪夢のような出来事に見舞われた。

特にこの1年は、悪夢が凝縮されたかの如く次から次へと襲い掛かり、「7月15日のクーデター」というクライマックスを迎える。一部の西欧人たちは、『今度こそトルコは滅ぶ』と喜んでいただろうか?
残念ながら、またしてもトルコの人々は、これに団結で応えて見せる。もちろん、西欧は未だ諦めていないようだ。相変わらず、“独裁”だの“粛清”だの、あらん限りの誹謗中傷を浴びせて来ている。教団のメンバーを排除させずに、もう一度、クーデターをやってもらいたいらしい。
さすがに私も「いい加減にしろ!」と叫びたくなってしまう。
昨日、ネットで日本の報道に目を通していたら、「・・『あちこちにエルドアン肖像画が飾られているだろう』と思っていた・・」なんていう記事が出ている。かつてのイラクフセインの肖像ばかりだったそうだ。
これは非常に良心的な記事で嬉しかった。記者の方は、“独裁者エルドアン”の先入観が揺らいだ瞬間を、率直に伝えていた。でも、フセインイラクと一緒にされていたとは、ちょっと怒りたくなるくらい悲しい。
4~5年前、トルコを視察に来られた方が、イスタンブールの街角で、スカーフを被った敬虔そうな若い女性と、何も被っていない若い女性が楽しそうに腕を組んで歩いているのを見て、「意外に思った」と打ち明けてくれた時も、半分嬉しく、半分悲しかった。
その方は、先入観に捉われず、あらゆる事象を冷静に観察していたけれど、トルコに来る前は、やはり「イスラム主義と政教分離主義の対立」といった視点から分析していたのではないかと思えたからだ。
さて、以下の添付の写真は、23日にカドゥキョイで撮った。
夕刻のカドゥキョイ、家路を急ぐ人、これから何処かレストランにでも行きそうなカップル、皆、当たり前の日常を生きている。そして、ボスポラス海峡に沈む夕日を眺めながら語り合う人々・・・
西欧の人たちは何を考えているのか知らないが、この社会はびくともしていない。

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