(7月20日)
2001年から2014年の5月まで、ギュレン教団系の旧ザマン紙でコラムを担当し、教団の人たちと身近に接していたジャーナリストのエティエン・マフチュプヤン氏が、昨日のカラル紙のコラムに、教団の人たちの印象について記していた。
マフチュプヤン氏によれば、教団は日常的な世界で、あれほど合理的で力のある組織を作り上げたにも拘わらず、そのメンバーに輝いているような人は余りいなかったそうである。
私が身近に見た教団のエリートは、皆、輝かしいばかりに優秀な人たちだったけれど、遥かな高みから洞察できるマフチュプヤン氏の目にはそう映らなかったようだ。
教団のメンバーは、自己を発展させることに躊躇いを見せ、教団の文化の境界線に近づくことを恐れていたと言う。狭い世界では、皆充分に有能だったが、自己の埋没を必要とする全てのイデオロギー的な活動で見られるように、ギュレン教団にも信じ難い「大きな愚かさ」が存在していた、とマフチュプヤン氏は分析している。
このコラム記事の表題は、「大きな愚かさの中の矮小な知性」と訳せるかもしれない。非常に考えさせられる最後の部分を、以下に拙訳で引用する。
「ギュレン運動は、大きな狂気が、如何に内部の合理性を創造し、自由を得たと信じた人たちが、如何に矮小な知性の世界に囚われてしまうのかを見せつけた。外側にいる我々も、この危険と全く無縁であるとは考えられない。何らかの理想を追い求めて、これに自己を委ね、知性と良心を預けてしまった誰もが、この“大きな愚かさ”の直ぐ近くにいる。」
ギュレン教団については、ここでもう何度も取り上げているので、それも参照して頂きたいが、彼らは自分たちの運動を「スズントゥ(漏れる・しみ出る)」と呼んだりしていた。日本語には“浸潤”と訳されていたのではないかと思う。
トルコでは、教団のメンバーが、軍や警察、司法、教育といったあらゆる機構に“浸潤”して、国家を背後から支配しようとしていたらしい。私はそういった記事を読んでいて、村上春樹の「羊をめぐる冒険」に出て来る“羊に入り込まれた男”を連想してしまった。
以下の“YouTube”の動画は、2013年12月、ギュレン教団とエルドアン政権が全面対決に突入した際に、フェトフッラー・ギュレン師がエルドアン政権を呪詛しているところだそうである。なんだかとても尋常な様子ではない。
AKPを支持する信心深いムスリムの中には、この様子が滑稽に思えたのか、動画をフェースブックにアップして茶化す者もいた。
基本的に、スンニー派のイスラムが信仰の対象にしているのはアッラー(神)と預言者だけで、特定の導師を崇めたりすることもなければ、祈りの最中に熱狂することもない。そのため、熱狂する“尊師”を茶化したくなるようだ。
ところが、教団の人たちも同様の動画をアップして、尊師の言葉を書き込んだりしていたから驚く。彼らにとっては、もちろん滑稽どころか有難いものなのだろう。やはり、特定の教祖的な人物を崇めるカルト教団はちょっと剣呑に思えてしまった。
Fethullah Gülen Beddua (Nifira Fethullah Gülen)