メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

爆破されたクルド新聞社のビル/裏切られた「太陽政策」

先週、イエニカプからカドゥルガをぬけてスルタンアフメットまで歩いた。カドゥルガの街を歩くのは久しぶりだった。

途中、今は区の登記事務所になっている建物の前を通りながら、10年ほど前、クルド語のロックコンサートを聴いたのは、ここじゃなかったかと思い出した。

当時は、真新しい区の公民館であり、そこのホールを借りてクルド人のグループがコンサートを開いたのである。公民館でクルド語のロックが聴けるようになったとは感慨もひとしおだった。

その時会場で会ったクルド人青年の話によれば、以前は、そこに“オズギュル・ギュンデム”というクルド系新聞社のビルが建っていたものの、これが爆破されてぶっ飛んでしまい、その跡地に公民館が建てられたそうである。

私はこの話に、目を丸くして驚いた。なぜなら、93年か94年、私は友人と共に、“オズギュル・ギュンデム”を訪れたことがあったからだ。確かに、ビルが建っていた場所はその辺りだったかもしれない。しかし、そこで詳細を訊いたりはせずに、コンサートが終わると会場を後にして、暫くしたら全てが忘却の彼方に押しやられてしまった。

一昨日、もう一度確認して見ようと、またカドゥルガまで出かけた。登記事務所前の古そうな金物屋さんに入って話を聞くと、登記事務所の建物がかつては公民館だったところまでは間違いなかった。

しかし、「その前は“オズギュル・ギュンデム”じゃなかったですか?」と訊いたら、「いや、あの新聞社が使っていたのは、その2軒先の黄色いビルですよ」と言われた。それから金物屋さんは、もう一人の来客に、「ほら、あのクルド人の新聞社だよ。爆弾騒ぎがあったじゃないか」と説明していた。

金物屋さんを出て、その黄色いビルの前まで行ってみると、なんとなく20余年前の記憶が少し蘇って来た。やはりこのビルだったと思う。爆破されてぶっ飛んだというのは、私の聞き違いか、クルド人青年の勘違いだったようだ。

私たちが“オズギュル・ギュンデム”を訪れた20余年前は、オザル大統領が不審な死を遂げ、クルド問題が最悪の事態を迎えようとしていた頃だった。それから97年ぐらいまで、クルド人の有力者らが次々と不審な死を遂げる暗黒の日々が続いたという。(私は94年の夏に帰国し、その後丸々4年間、トルコから離れていた)

私たちを迎え入れた“オズギュル・ギュンデム”の編集者は、「一人で外へ出ると、そのまま“行方不明”になってしまう危険があるので、タバコを買いに行く時でさえ、必ず二人で出るようにしています」と話していた。突然拉致されて行方が解らなくなったクルド人運動家がたくさんいたそうである。

トルコ共和国は、オザル大統領が問題の政治的な解決に乗り出すまで、クルド人が存在するというリアリティーさえ認めていなかったと言われている。

84年に、PKKが武力闘争を開始すると、武力には武力とばかり、これを軍事力だけで解決しようとした。そして、オザル大統領の死後、暗黒の90年代には、PKKのテロに対して、国家テロとも言うべき拉致・謀殺といった手段で制圧が試みられたらしい。

2000年代に入って、再び政治的な解決が模索されるようになり、AKP政権はこれを加速させた。2013年からは、和平プロセスがいよいよ本格的にスタートする。

この和平プロセスは、韓国の金大中大統領が北朝鮮に対して実施した“太陽政策”に似ているかもしれない。冷たい風で制圧しようとするのではなく、暖かい太陽の光で和解をもたらそうという姿勢が同じであるような気がする。そして、同じように相手から裏切られてしまった。

譲歩を引き出そうとする時だけ融和的な態度を見せたりして、PKKとこれに同調する勢力は、北朝鮮にとても良く似ている。

現在、トルコ軍によって進められているPKKの掃討は、既にPKKがクルド人民衆の支持を失っている点で、90年代のものとは全く異なる。

トルコ政府は、クルド問題のリアリティーを充分に見極めているはずだ。今は世界がPKKのリアリティーを認識すべき時じゃないかと思う。

 

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