メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの美しい女性アナウンサーたち

先月の11日、旧友のアリさんと飲みに行ったカドゥキョイの小奇麗なカフェ風の酒場では、若い女性が働いていたけれど、やはり“看板娘”と言うにはほど遠いような気がした。
なにしろ、トルコには美人が多い。その中で“看板娘”と言える為には、平均より少し上でなければ拙いだろう。
カフェ風酒場の女性は、残念ながら平均並みだった。もちろん、ニシャンタシュやバーダット通り辺りの高い店へ行けば、度肝を抜かれるような美人の看板娘が出迎えてくれるのかもしれないが、私には殆ど縁のない話だ。
しかし、そういう店に看板娘的な美人が進出し始めたのは、この20年ぐらいの出来事じゃないだろうか? 
91年、私が初めてトルコへやって来た頃は、銀幕の女優たちの中にも飛び切りの美人はそれほど多くなかったような気がする。
『巷にはこんなに美人が多いのに、何故、美人女優が少ないのか?』と考え込んでしまったほどである。あの頃は、トルコの航空会社のスチュワーデスさんたちを見ても、同様の考えが頭に浮かんだ。
多分、当時は未だ“女性の美しさ”を売り物にすることが憚られていたのかもしれない。

 2004年4月のミリエト紙の記事で、筆者は民放の女性アナウンサーが美しくなったことを歓迎しながら、次のように解説している。
「国家イデオロギーにより創造された、政教分離主義で飾り気のない、重厚でくそ真面目な女性の姿(公営放送の女性アナウンサーは正にこのタイプ)からも、左翼やインテリやフェミニストたちが理想とした女性の姿からも、ほど遠い彼女たちの姿が際立って来たことを、私たちは喜んで良いはずだ。」

この現象は、記事が書かれた2004年以降、一層顕著になって来たように思う。
現在は、記事の筆者がおそらく想定していなかった“スカーフを被った女性アナウンサー”も活躍しているけれど、彼女たちでさえ、多くの場合、筆者が美しい女性アナウンサーを形容しながら並べた-『言葉使いは正しい/概して高学歴で結構文化的/着飾っている/とても魅力的で素敵な女らしい女性』という表現にぴったり当てはまっている。
イスラムイデオロギーは、政教分離の国家イデオロギーほど強くなかったということなのか・・・。