メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ルムの民族学校

昨年の11月、コンスタンティノポリ総主教庁の近くにあるルムの高校(ギリシャ民族学校)を見に行って、辺りを歩いていたら、やはり学校のような古い建物の前に人々が集まっている。訊くと、そこもかつてはルムの民族学校であり、その日は、展覧会が催されていた。
もう随分前に廃校になったそうだが、教室には机や椅子がそのままになっていた。良く見れば、各教室の前に生徒の名簿の一部らしきものも張り出されている。
ある教室には、「1987~1988学年 中等第3教室」という表示の下に、3人の女生徒の顔写真付き名簿が貼り付けられていた。各々の名は、アントヴァネット、マリア、ナターリアで、マリアさんイスタンブール、アントヴァネットさんは、シリア国境に近いハタイ県アルトゥノズの生まれのようである。
彼女たち、1973年生まれと記されている。多分、スザンナさんと同じぐらいじゃないだろうか。スザンナさんの友人でハタイ県出身のデスピナーさんは、総主教庁のあるバラット地区に住んでいると話していたから、ひょっとすると知り合いかもしれない。
バラット地区には、昔、ルムの他にユダヤ人も多かったと言われているが、おそらく50年代~60年代に、彼らが去ってしまうと、その後は東部や南東部から出て来た貧しい人たちが居住し始めたらしい。ハタイ県出身のアラブ系正教徒の住民も少なくないようである。
デスピナーさんは、以前、デルヤ・ツアーというギリシャ行きのバスを運行している会社で働いていた。2004年~2006年に、私は何度か彼女からギリシャ行きのチケットを買ったことがある。
チケットを購入する際、ギリシャの状況を確認しようとしたら、直ぐギリシャに電話して問い合わせてくれたので、私は彼女がギリシャ語を母語とするルムなのかと思った。
2005年頃、当時、間借りしていた所の家主だった故マリアさんに訊いても、「ルムで私たちの良い友人だよ」と言うから、それで納得していたが、実のところ、デスピナーさんの母語アラビア語であり、ギリシャ語が解るのは、イスタンブール民族学校で学んだお陰らしい。
マリアさんが亡くなってから、一度、スザンナさんを訪ねて来たけれど、傍で2人の会話を聞いていると、デスピナーさんはそれほど流暢にギリシャ語を話せるわけでもないようだった。かなり頻繁にトルコ語が出て来てしまうのである。
スザンナさんとデスピナーさんは同い年ぐらいに見えたが、同級生ではなかったと思う。スザンナさんは中学を卒業すると、ギリシャへ渡ったそうだし、中学校もバラット地区には通っていなかっただろう。
良く解らないが、デスピナーさんは、スザンナさんというより、故マリアさんの友人だったような気がする。
マリアさんは、相当な資産家のお嬢さんとして育ったらしいが、どんな人とも分け隔てなく付き合っていた。「昔、この街(ジハンギル)には、私たちルムや上級のトルコ人しか住めなかった」などとぼやいたりすることもあったけれど、隣の貧しい夫婦にはいつも優しく声をかけていた。
何より、民族や人種に対する偏見が殆ど感じられなかった。我々東洋人にも全く偏見はなかったに違いない。
イスタンブールには美しい都市にあるべき全てのものがある」と言って、この都市をこよなく愛していたけれど、もともとオープンで世界的なイスタンブールがとても良く似合う人だったのではないだろうか。
マリアさんがバルソロメオス総主教を敬愛してやまなかったのも、この辺に理由があったのかもしれない。

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