メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

“アーシューラー”の街

キリスト教は、自分たちを迫害した人々への恨みではなく、十字架に掛けられたイエスへの“感謝”を信仰の動機にしているのではないかと思うが、果たしてシーア派の場合はどうなんだろう? 昨日、また良く解らない話を書いてから、こんなことが気になってしまった。
一昨日の行事では、ハメネイ代理人のメッセージに続いて、愛をテーマにした演劇が上演されると聞いたけれど、私はこれを観ることなく会場を後にしてしまった。観ておけば、少しは何かが解ったかもしれない。
しかし、例えば、イスラム革命以降のイランを見ていると、何だかアメリカやイスラエルに対する恨みをエネルギーにしているようで気になる。一昨日の“アーシューラー”の熱狂にも、トルコでシーア派の信仰が蔑ろにされて来たという恨みに似た思いが込められていたのではないだろうか?
会場の周辺を案内してくれたアゼルバイジャントルコ人の青年も、「昔は、自分たちが“ジャフェリー”であると口にすることも憚られた」と少数派の思いを語っていた。
ある人が、何らかの恨みや妬みをエネルギーにして成功を収めたとしても、果たしてその人は、どのくらい幸せになれるのか、私には疑問に思えるけれど、これは一つの社会においても同様であるかもしれない。
しかし、残念ながら、現在のイスラム世界を見ると、シーア派に限らず、スンニー派でも知識層の一部は、欧米に対する恨みを動機にしているような気がする。もっとも、そのエネルギーが社会全般に行き渡っていたわけじゃないから、社会的な発展を遂げることもなかったのだろう。
戦後の日本が、アメリカに対して極端な恨みを懐かなかったのは幸いだったと思う。

*写真は、一昨日の街の様子。至る所で、大鍋にピラフや肉の煮込みが用意されて、人々に振舞われていた。チャイや水を配っているスタンドもあった。また、コーランなど宗教的な書物を販売しているスタンドに、ホメイニ師の本が置かれているのも興味深かった。

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