メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ポロネーズ・キョイ(村)

トルコ語版ウイキペディアの記述によれば、ポロネーズ・キョイは、19世紀中葉の当時、亡命ポーランド人らの指導者であったアダム・イエジィ・チャルトリスキの尽力で、1842年に開かれ、“アダムの村”という意味のポーランド語で“Adampol”と名付けられた。
この辺り一帯は、イスタンブールで最も古い歴史のある“サンブノワ(Saint Benoit)フランス高校”を運営していたラザリスト会の聖職者らにより、1830年代から農地として整備が進められていたという。
当時、亡命ポーランド人たちは、パリを政治的な拠点にしていたが、 アダム・イエジィ・チャルトリスキは、第2の拠点をオスマン帝国内に創設する目的で、ミハウ・ チャイコフスキをオスマン帝国に派遣した。

 このミハウ・ チャイコフスキが、ラザリスト会の聖職者から土地を買い入れて、ポーランド人の入植が始まったそうである。
ミハウ・ チャイコフスキは、ウクライナのヴォルィーニに生まれたポーランド系のカトリックだったが、オスマン帝国イスラムに改宗、“パシャ(将軍)”と称される。その後、ロシアに寝返って正教徒となり、最後はウクライナで没するという数奇な運命を辿ったらしい。
ミハウ・ チャイコフスキについては、「イスタンブル東方機関―ポーランドの亡命愛国者(早坂真理著)/筑摩書房:1987年」という本が出ているのをインターネットで見つけたけれど、残念ながら既に廃刊となっていて、なかなか手に入らないようである。
さて、現在も、ポロネーズ・キョイにはカトリックの教会があり、僅かながらポーランド人入植者の子孫が暮らしているそうだ。教会の近くには、カトリックの墓地もあった。
あの日、私は村に40分ほどしかいなかったので、ポーランドの人に会う機会はなかったが、ミサのある日曜日に訪れれば、そういうチャンスもあるかもしれない。ただ、どうやって来るかが問題だが・・・。
しかし、今回、1時間に満たない滞在でも、村のレストランでポーランド料理を食べたり、村で食料品店を営む同年輩のトルコ人女性から、いろいろ伺ったりすることができた。
その女性が語ったのは、以下のような話である。
「私はベイコズで生まれて、子供の頃に、この村へ来たんですが、当時はポーランドの人たちばかりで、本当にポーランドの村でした。とても良い思い出があります。まあ、40年ほど前と申しておきましょうかね」
「今でも、豚を飼っている所はあるんですか? ちょっと先のレストランには豚肉のメニューもありましたが・・・」
「いや、もうありませんね。その豚肉は外から仕入れているんでしょう。そうですねえ、豚の飼育が見られなくなってから、既に30年ぐらい経つんじゃないかと思います。昔は、白い大きな豚がたくさん飼われていましたよ」
ポーランドの人たちも豚肉を外から購入しているんでしょうか?」
「彼らは、周囲の森へ猟に出て、自分たちで仕留めて来ますよ。黒い野生の豚ですが・・・」
私は一昨年の犠牲祭に訪れた村で、仕留めたイノシシをポロネーズ・キョイまで持って行って、ポーランド人の家族に売り渡しているという話を村の人から聞いた。これを彼女に伝えると、にっこり笑って、
「そう、そういうこともありますよね。ポーランドの人たちは、その豚肉からとても美味しいスジュク(トルコ風のソーセージ)を作るんです。売っている所? いえいえ、自分たちが食べるだけです。もう村の中には豚肉の加工品を売っている所もありません」と明らかにしていた。
まあ、タクシーを使って村で一泊できるような身分になれば、他にも色んな見聞を得られるんじゃないかと思うけれど、そんな夢ばかり見ていてもしょうがない。次は、ジュムフリエト辺りから歩く計画でも考えてみることにしよう。

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