メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

マイノリティの最も真実的な試験

現在、アクシャム紙にコラムを書いているエティエン・マフチュプヤン氏の日曜日の記事「マイノリティの最も真実的な試験」が非常に興味深かったので、後半の部分を以下に拙訳でお伝えします。
この記事は、3週間前の「マイノリティの最も真実的な問い」という記事に対する反発に応えるかたちで書かれたようです。
自身がカソリックアルメニア人というマイノリティであるマフチュプヤン氏は、トルコの社会が新たに形作られる過程で、マイノリティたちが何をやらなければならないのかを説いています。
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〈前略〉
必要なのは、相手に胸襟を開くことである。そして、これがあの記事のもう一つの問題に我々を導いてくれる。
マイノリティ(ユダヤ人・キリスト教徒など非イスラム教徒のトルコ国民)の社会は、過去200年に亘り、自分たちの頭の中でムスリムを見下した認識、観点、言説を育てて来た。彼らが無知で無作法で発展できなかったという確証に基づいた決まり文句を繰り返すことで、気持ちを楽にしてきたのである。
友人として自分たちの側に招き入れたムスリムと他のムスリムを分けて考えた。問題は、「政教分離」と「敬虔な信仰」の対立の中で解決された。この枠組みに入るムスリムたちは、西欧の作法を身に付け、国家主義的な保守性とも距離を置く人たちだった。しかし、この人たちは、同時に庇護的な体制のお陰で命脈を保っていたのである。
その体制が崩壊することにより、この人たちの階層も隅に追いやられ、影響力を失った。こうして、マイノリティたちは、いきなり多数派の“敬虔なムスリムたち”と向き合わなければならなくなった。
今日、マイノリティたちは自らを社会に解き放って、ムスリムたちに「そうです。我々は貴方たちを見下していました。しかし、正当な理由があったのです」と言わなければならない。
抑圧され、強制移住され、殺され、財産を奪われ、徐々に少なくなり、無視された人々が、マジョリティに対して何を考えられるだろうか?
ムスリムたちを頭の中で見下すことが、マイノリティたちを心理的に立ち直らせ、一息ついて自尊心を回復し、いくらかでも真っ当な人間として感じられるようにさせたのである。
今日、これを勇気をもって説明し、分かち合わなければならない。何故なら、既に我々の向こう側には、これを聞くことを望み、我々と共に悲しみ合う準備が出来た“新しい社会的な階層”がある。そして、この国を新たに建設するのである。
私が書いた記事に寄せられた最も多い反発の一つは、これによって扇動された無知な民衆がマイノリティに危害を加えるだろう、というものだった。これを主張する人たちは、おそらくムスリムたちが無知である為に、記事の内容を理解できない、あるいは本質的にそういう態度を取るだろうと仮定したようだ。
しかし、彼らは、私の「見下してきた」という分析に抗議しながら、未だに同じことをやっているのに気が付いていない。
あの記事を書いて以来、3週間が過ぎた。私の記事に扇動され、辺りを攻撃したムスリムの例は一つも聞いていない。しかし、数多のマイノリティと左派知識人は、充分に扇動されて、ソーシャル・メディアであからさまに民族主義的な言説により、私に襲い掛かることを当然と思ったようである。
何故なら、露見されてしまったという感情は、なかなか扇動的であり、充分に成熟した人間でなければ、攻撃的になってしまう要因になるからだ。しかしながら、我々の真実を我々が打ち明けることで、通常、相手側が扇動されたりはしない。お互いの距離が縮まるだけである。
マイノリティの態度は、その集団の構造が国家によって守られている時代には有効だった。しかし、一つの社会になろうとするダイナミズムが歩みだした今日では、既に時代錯誤であり、有害である。
同胞になるためには、単に権利を主張し、被害者意識に寄りかかっていても無理である。社会が形成されて行く過程の中にいなければならない。
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原文↓

merhaba-ajansi.hatenablog.com