メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ボズジャ島“嵐の珍道中”

ボズジャ島の3日間の旅も終わり、昨日、イスタンブールへ帰って来た。
今回の旅は、旅に出る2日前から“嵐を呼ぶ女”の登場で、波乱含みの幕開けとなった。“嵐を呼ぶ女”とは、故マリアさんの娘のスザンナさんで、私は彼女に“驚異の天然記念物女”という綽名を密かにつけたこともある。
スザンナさんとは、この3年ぐらい、たまに電話で連絡を取り合うだけだったが、ちょうど島へ発つ2日前に電話があった。それで、「今、母が来ていて、明後日からボズジャ島へ行く予定だ」と近況を話したところ、「私、昔からボズジャ島に行きたかったの。私も行くわよ」と言い出した。
その時は、「もう今からでは、バスのチケットも取れないし、島で宿を見つけるのも大変だよ」と説明し、実際、間に合わないだろうと高をくくっていた。
ところが、当日、ボズジャ島行きのバスに乗るため、母とターミナルへ行って驚いた。スザンナさんが姿を現したのである。なんでも最後に一つ残っていた席が取れたらしい。
私と母は、一番前の席に座ったけれど、道中、中ほどの席に座っているスザンナさんが、携帯で話す大きな声や、隣席の女性とお喋りしながらゲラゲラ笑っているのが聴こえて来て冷や汗が出た。
しかし、実を言えば、2009年、ボズジャ島で開催される“ホメロスを読む会”に初めて参加して以来、私は、スザンナさんと息子のディミトリー君を何とか“ホメロスを読む会”に呼べないものかと考えていた。“ホメロスを読む会”でギリシャ語が読まれないのは、とても残念な気がしたからだ。

 もちろん、ギリシャ語でホメロスを読んでもらいたいと思ったのは、スザンナさんじゃなくて、息子のディミトリー君だった。ディミトリー君は中学までギリシャで教育を受けて、ギリシャ語は完璧であるし、イスタンブールギリシャ民族学校でも演劇部で活躍していた。
スザンナさんも高校時代ギリシャで学び、長い間ギリシャで暮らしていたため、トルコ語が少しおかしいくらいだが、ギリシャの歌の意味を訊いたりすると答えられず、ディミトリー君に訊かなければならなかったりした。
母のマリアさんは、自分たちの話すトルコ語が、オスマン帝国以来の格式の高いものであり、母語もコンスタンティノポリの正統なギリシャ語であると誇り、これは孫のディミトリー君に受け継がれていると語っていたけれど、娘のスザンナさんに関しては、「あれはギリシャ語もトルコ語もなっていない。まったく何でああなったのかねえ」と嘆いていた。
だから、是非、ディミトリー君に、ホメロスを読んでもらおうと考えていたものの、当時の彼らの経済状況では、私が旅費も工面しなければならないような雰囲気だったから、半ば諦めていたのである。
しかし、2011年だったか、スザンナさんは、私も間借りしていたあの旧居を売り払ってしまい、以来、トルコ国内を旅行したりして、結構贅沢を楽しんでいるらしい。そんなこと続けていたら、瞬く間に蕩尽してしまいそうだが・・・。
さて、8月1日、スザンナさんは、インターネットで調べたボズジャ島のホテルが高いと言って、宿の予約もして来なかった。“ホテルは高い”というぐらいの経済観念は残っているようだ。それで、夜9時過ぎにボズジャ島へ着いてから、まず安いペンションを探すのだと大騒ぎした。
やっと見つけて、皆で晩飯を食べようと、島へ来るたびに利用している“エスナフ・ロカンタス(大衆食堂?)”へ案内したら、「ここに私が食べられるようなものはない!」と言い残して、一人で何処かへ行ってしまった。後で聞いたら、近くの魚料理レストランで、45リラもする夕食を楽しんだそうである。それなら、ホテル代を、何故、あれほどケチる必要があったのか・・・。
日曜日の夜明けの“ホメロスを読む会”では、もちろんスザンナさんがギリシャ語でホメロスを読んだ。淀みなくスラスラ読んでいるように聴こえた。今回の“読む会”には、1960年にボズジャ島で生まれ、11歳の時に家族でオーストラリアへ移住したという作家のディミトリー・カクミ氏も参加していたが、氏はギリシャ語をかなり忘れてしまい、スザンナさんともやっと会話していたくらいだから、多少間違いがあっても気がつかなかっただろう。
私も日本語で読んだけれど、途中、何度かつかえてしまった。母はもちろん気がついたに違いない。でも、アルツハイマー症を患っている母は、なんでも直ぐ忘れてしまうから、私がつかえてしまったのを記憶に留めたのは私だけだと思う。 

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