メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

炭鉱事故

トルコの炭鉱事故は、日本でも大きく報道されたようである。イスタンブールのデモの様子まで伝えられたため、こちらの治安を心配して連絡してきた人もいるという。
デモに燃える若者たちは、またもやタクシム辺りで派手にやったらしいけれど、イエニドアンの街は至って平穏だった。日本の60年代の安保闘争では、時の岸首相が、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである」などと放言したそうだ。それと似たような状況かもしれない。
15日の木曜日、工場は労働組合の決定で、喪に服することになり、丸一日操業が停止されていた。

もちろん、一日中、皆が喪に服して沈痛な表情を浮かべていたわけじゃない。事務方はいつも通り業務を進めていたし、手持ち無沙汰の現場の人たちも、時には普通に冗談を言い合っていた。送迎バスの中も同様。水曜日の帰りは、どういうわけか女性が一人もいなかったため、下ネタのオンパレードだった。
日本では既に稼動している炭鉱さえ殆どないようだが、子供の頃に悲惨な事故のニュースを見た覚えがある。ウイキペディアで調べてみたところ、60年代から70年代にかけて、かなりの炭鉱事故があったらしい。

特に、1963年の三井三池炭鉱の事故は、死者・行方不明者が458人に達したという。
驚いたのは、私が成人した1980年以降も、事故が散発していたことだ。ウイキペディアによれば以下の通りである。
1981年 北炭夕張新炭鉱 死者93人
1984年 三井三池炭鉱有明抗 死者83人
1985年 三菱南大夕張炭鉱 死者62人
84年~85年と言えば、日本はもうバブル景気で沸き返っていただろう。私はプレハブの飯場に住み込んで、産廃のダンプをやっていたけれど、それでも収入は悪くなかったから、頻繁に吉原のソープへ突撃し、上福岡辺りのバーで騒いだりしていた。

 そんな中、未だ命を懸けて炭鉱で働いていた人たちがいたなんて・・・。全く想像もしていなかった。事故で亡くなった方に哀悼を捧げることもなかった。
80年代、日本では原子力発電が急増し、膨大な貿易黒字にも支えられて、石炭を輸入に頼るようになり、炭鉱の需要は大幅に減って行った。

しかし、日本へ石炭を輸出していた国々では、その後も炭鉱事故が多発していたかもしれない。それを私たちは何とも思わずに使わせてもらっていた。以下のブログで、池田信夫氏は、この悲劇的な事実を指摘している。

考えて見れば、私たちが平和に使っている石油も、その利権をめぐって血生臭い戦争が繰り返され、多くの人たちが命を失った。おそらく、石油の為に死んだ人たちは、広島・長崎の犠牲者を含めても、原子力のそれを上回るに違いない。
トルコでも、この炭鉱事故を受けて、サバー紙のメフメット・バルラス氏を始め、原子力発電所の必要性を訴える識者がいる。
他国の人たちの血の代償で得られた石油を湯水のように使い、原子力からもエネルギーを確保しながら、繁栄を謳歌してきた私たちがこれに何を言えるだろうか。

というより、私たちもその繁栄を維持したいのであれば、暫定的に原子力発電所の再稼動を考えなければならない瀬戸際に立たされているような気がする。