メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

韓流~漱石の「三四郎」

 88年、韓国に留学していた頃は、下宿で連続ドラマを毎日のように観ていた。当時、まだ“韓流”なんて言葉はなかったと思うけれど、なかなか面白い連続ドラマが多かった。その中でも特に楽しみにしていた“ネイル・イジュリ(明日、忘れよう)”を最後まで観られなかったのが残念だ。DVDとか出ていないだろうか?
薄幸の若く美しい女性が、実業家として立身出世を遂げながら、かつて自分を棄てて去った男を見返していくというストーリー、「金色夜叉」の貫一が女になったような話だと思えば良いかもしれない。
これでもかと言うくらいメリハリを効かせた、まさしく“韓流ドラマ”だったが、しっかりした言葉遣いの台詞が多く、韓国語の学習にとても役立った。
韓国の連続ドラマは、97~8年、大阪にいた頃も、谷町辺りにあった韓国ビデオ・レンタル店で借りて来て良く観た。題名を忘れたけれど、疫病が発生した小さな島で住民たちの間に広がる葛藤を描いた単発ドラマなどは、凄い名作じゃないかと思った。
しかし、余りにも見え透いたすれ違いや偶発する悲劇に彩られた所謂“韓流ドラマ”も少なくなかった。初回の冒頭、中学生の長男と小学生の長女に留守番を頼み、両親は車で何処かへ出掛ける。『まさか?』と思って観ていると、両親の車の前に突然トラックが・・・。あっという間に、不幸な孤児の兄妹が出来上がってしまう。
これではお手軽過ぎやしないかと嫌になるが、一昔前の日本の連ドラや最近のトレンディ・ドラマとやらも似たり寄ったりかもしれない。でも、かつて日本では、そんなドラマが名作と持て囃されたりすることもなかったような気がする。
それが近頃はどうだろう? ドキュメンタリーの世界にまで、お手軽で嘘くさい悲劇が進出したらしい。“全聾の作曲家”なんてその典型じゃないかと思う。創作に手間を掛けるのが面倒になってしまったのかもしれない。
まあ、200年前のヨーロッパでも、“モーツァルトのレクイエム伝説”に感動した人たちがいたのだから、こういうお手軽さへの誘惑は、古今東西を問わないようである。

大袈裟な事件や悲劇がなくても、感動できる物語があるはずだ。例えば、夏目漱石の「三四郎」など、全編を通じて“事件”と言えるような出来事は起こっていない。物語は、三四郎と美禰子を軸に展開しているように見えるが、結局、2人の間に何も起こらないまま終わってしまう。それでも、私は高校生の頃に初めて読んで、非常な感銘を受け、何度も読み返した。
今でも、好きな場面を数ページ読むと、青春の日々が蘇ってきて、甘酸っぱい感傷に捉われる。なんて書くと、「お前の青春は、高校時代の日活ロマンポルノに始まって、20代のソープランドで終わったんじゃないのか?」と揶揄されそうだが、私にとって「三四郎」は、日活ロマンポルノ以上にエロい小説だったかもしれない。
恋愛が良く解っていなかったらしい夏目漱石には、同性愛者説もあるという。しかし、「愛嬌がない」とこきおろしていた奥さんとの間に7人もの子供を作った漱石が“女好き”じゃなかったと考えるのは、かなり無理があるだろう。
小説「三四郎」は、美禰子が二度目に登場する病院の場面で、彼女のお辞儀の仕方が巧いとか言って、その腰つきなどを執拗に描写する辺りからして、既に相当エロい。
この内にこもったエロが、クライマックスに達するのは、三四郎と美禰子が、菊人形の見物から抜け出て、2人で谷中の近辺を彷徨うところだ。途中、泥濘を跳び越した美禰子は勢い余って、三四郎の両腕の上に落ちる。
「・・・『ストレイシープ(迷える子)』と美禰子が口の内で云った。三四郎はその呼吸を感ずる事が出来た。」
美禰子様の呼吸(いき)を感じてしまうなんて・・・。これは思わず勃起ものじゃないかと興奮した。エロ中枢を刺激しようとして、女性のすっぽんぽんを描いたり、すぐに股を開かせたりするのは、何ともお手軽なやり方に違いない。
三四郎」には、もちろんエロばかりじゃなくて、後の漱石の小説で繰り返される“自我の問題”も描かれていた。青春の夢と怖れ、そして躓き、私にとっては最も感動的な青春の小説じゃないかと思う。

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