メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

俺の墓に唾を吐け

前回、お伝えした趙甲済氏の「ネ・ムドメ・チムルペトラ(俺の墓に唾を吐け)」。
大阪にいた97年~98年にかけて、私は「朝鮮日報」の連載から、この作品を第3巻まで読んでいた。
私たち日本人にとって、最も興味深いのは、その 3巻の部分じゃないかと思う。ここには、朴正熙氏が生まれてから、日本の敗戦によって独立を迎えるまでの“日本統治下の朝鮮”が描かれている。
これを読むと、『我々日本人と韓国人は、良くも悪くも36年の歴史を共有していたのだなあ・・・』という感慨にとらわれてしまう。この“歴史の共有”は、一方的に日本が望んだ為に実現した。これを考えたら、韓国との友好関係を疎かにすることは出来ないような気がする。
私は、98年に、この作品の一部を拙訳してみた。朴大統領の陸英修夫人が、どういった家庭に育ったのか明らかにした箇所である。父親の陸鐘寛氏に、日本人の妾がいたりして、非常に興味深い。日本語訳が出ていないようなので、拙訳を以下に載せるが、いつか良い完訳が出ることを希望する。
尚、表題の「ネ・ムドメ・チムルペトラ(俺の墓に唾を吐け)」は、朴正熙大統領が生前、反対派の人々を前にして「今は俺の言うことを聴いてくれ。それで俺が死んだら、俺の墓に唾を吐けば言いじゃないか」と語っていたことに由来しているそうだ。 

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朴大統領夫人・陸英修 

朴大統領の夫人であった陸英修の父、陸鐘寛は甚だ強烈な個性を持った人物であった。次女の英修が未来の大統領と結婚することに反対してからは婿に会おうとせず、婿が大統領になった後も、その節を曲げようとしなかった。そして1965年に72歳で死んだ。 
1893年、忠北道沃川郡陵月里において、大地主、陸用弼の子女五人の内で末っ子として生まれた鐘寛は、兄たちが故郷を離れて出世するや、故郷に残って家の財産を管理した。 
長兄鐘充は承政院の副承旨として任官した後、開化派活動を展開し、金玉均と共に甲辛政変に参与した。クーデターが失敗すると、ハワイを経由して日本へ逃れ、成田玉純という名で亡命生活をおくったが客死した。 
次兄は東京で商船学校を卒業し、船長として働いた後、法律を学んで検事から弁護士になった。三兄は早死にし、姉は宗氏に嫁いだ。 
鐘寛は16歳で二つ下の李慶齢を嫁に迎えた。その後、米殻卸、金鉱、人参加工業で財を成し、校洞の古い家を買い取って、城のような大邸宅に増築した。 
<中略> 
邸宅を囲む塀は、縦100メートル、横50メートルほどあった。陸鐘寛は、この大邸宅を自分の王国のように支配した。朴正煕が大統領になった後も婿として認めない態度を堅持し得た気骨は、何の干渉も受けずにこの城砦を守って来た貫禄から出たものだった。 
1925年に生まれた英修は、姉と11歳、弟と7歳、妹とは4歳、歳が離れていた。この間、鐘寛は5人の妾に、育っただけでも18人の子を生ませているが、これを全て自分の戸籍に入れ、平均以上の教育を与えた。女子は高校、男子は大学まで送った。 
鐘寛は妾の管理を本妻の李慶齢に任せていた。妾たちは李慶齢を「オモニ(お母さん)」と呼んで気を使わなければならなかった。しかし、李慶齢も寛大な態度で妾たちに接したようだった。 
この王国では、女たちの間に争いごとがあってはならなかったのである。とはいえ、李慶齢は小姑の陸再完をよく訪ねて、夫の畜妾生活に対する愚痴をこぼしていたという。慶齢は、祝い事のある時に訪ねて来る陸再完の子たちが、自分に挨拶した後で、妾たちにも同じようにすることに我慢がならなかったらしい。 
英修は、人知れず涙を流すこともあった母を支えて「私が大きくなったら、きっと楽をさせてあげますよ」と慰めていたということである。この母子が朴正煕と出会って、大胆にも鐘寛に反乱を敢行した時には、それまでの積もり積もった不満の影響があったことだろう。 
5人の妾は、次のように呼ばれていた。沃川マーマー、大きな開城マーマー、小さな開城マーマー、南村マーマー、ソウルマーマーである。 
南村マーマーは日本人女性であり、鐘寛の日本語家庭教師として迎えられた後、妾となった。本来の名を野村といったこの女性は、とても生真面目な性格で李慶齢によく仕えた。李慶齢も彼女を大事にしていたが、彼女がいなければ日常生活に不便が生じる程であった。鐘寛は妾たちに一軒の家を別に与えていたが、この南村マーマーだけは、自立するのが難しいと考えたのか、同じ屋根の下で暮らすようにさせていた。 
二人の開城マーマーは姉妹であったが、姉の方は後に、ソウルで一軒与えられ、そこに住んだ。これは鐘寛が子供たちをソウルの学校へ送る時の拠点にするためのものであった。英修も白花女高にこの家から通ったが、心苦しく感じることは少なくなかったはずだ。 
この5人の妾たちは陸鐘寛と長い間共に暮らした人たちであり、この他にもたくさんの女と関係を持った。彼は心から一人の女を愛したり惚れたりするような人間ではなかった。そして、自身の畜妾生活を恥ずかしいと思うどころか、家勢を象徴するものとして自慢に思っていたようだった。 
陸鐘寛は資産家であっただけでなく、人の心の内を見抜く目も持っていて、且つ能弁だった。そんな彼が女の気を引こうとする時に、どうにも困ることがあった。悪筆だったのである。1930年代の初めに、机ほどもあるタイプライターが登場すると、さっそくこれを購入して徹夜で恋文を打ったりした。一文字打ってから次の字を打つまでに時間の掛かるこの機械が「カタコト」と音を響かせるや、李慶齢と妾たちは「アイゴー、また旦那様の浮気が始まったよ」とため息まじりに笑ったものだということである。 
<中略> 
彼には大変な収集癖があった。女さえも収集の対象と見なしていたのかもしれない。ソウルの妾宅に居た時には、置時計と懐中時計の収集に夢中になった。何ヶ月も経たない内に彼の部屋は古時計の天地となった。家中に時計の音が満ち満ち、皆うなされて夜も寝られない有様だったという。 
一時は銃器の収集に凝った。ブラウニングやウィンチェスターなど猟銃を30あまり、拳銃を10あまり揃えて日本人警察署長に自慢したりした。警察署長が新たに赴任して来る度に名品をさっと見せておいて、気に入った物は近い内に贈呈するようなことをほのめかし、署長が度々訪れるようになると、許認可の問題や訴事を請託したりした。彼は、長男の陸寅修にこんなことを言っている。「税務署長と警察署長にはお金をたくさんやらないといけない。郡守には少しでいい、力がないからな」。 
<中略> 
陸鐘寛が特別に親日的な行動をしていたという証言はない。にも関わらず警察署長が赴任の挨拶に来るほどになっていたのは、李朝末期に日本へ亡命していた彼の長兄が日本の政客と親しかった為である。朝鮮へ赴任する総督に弟のことを頼めるぐらいの付き合いがあったということだ。 
1920年代の末、総督府では忠北永同地方に電気の架設を進めていたが、沃川では駅の近くだけに架設する計画だった。鐘寛は村の発展の為に必ず電気を引かなければならないと飛び回っていたが、計画は変わらなかった。 
しゃくにさわった彼は、6キロほど離れたオリティ川に水力発電所を造るとぶちあげた。大阪から発電機製作会社の人を呼んで現地で調査させるまでになると、ついに総督府の方が降参した。電信柱を立てる費用を鐘寛が負担するという条件で校洞まで電気を引くことに成功した。陸英修が幼い頃、校洞の家では百にも及ぶ電灯が夜を照らしていた。朴正煕が生まれた上毛里にはそれより40年後の1970年代初期になって電気が来ている。 

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