メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

漱石の罠

夏目漱石の「三四郎」。物語が始まって間もなく、三四郎は美禰子と出会い、これがそのうち大恋愛に発展するのかと思って読んで行くと、物語の終わり近くになって、突然、美禰子の婚約者が現れ、三四郎は衝撃を受けてよろめき、読んでいる我々も大いに驚いて、「ええ?」と思っている間に、物語は「ストレイシープストレイシープ」で終わってしまう。 
この小説には、連載が終わって出版される際、漱石自身による解説が試みられていて、それによると、美禰子には「無意識の偽善」があり、もともと三四郎と恋愛するつもりなどなかったのに、女性として無意識のうちに三四郎の気を引こうとしていたのだそうである。 
私は高校生の頃に「三四郎」を読み、巻末の「無意識の偽善」云々にも目を通したけれど、これがどうにも腑に落ちなかった。『嘘だろ? 美禰子は池のほとりで最初に出会った時から三四郎を意識していたようだし、絵のモデルになった時も、池のほとりの出会いを再現しようとしたじゃないか? それを書いた漱石自身が“無意識の偽善”だったと言うなんて・・・』。 
漱石は学術優秀のエリートで、かなりスポーツも出来たそうだ。要するに“モテる”要素がかなりあったはずなのに、結局、恋愛には全く縁がなかったらしい。だから、漱石の小説には「恋愛に縁のない男の妄想」が随所に鏤められていて、私のような“恋愛に縁のない男”が興奮するのだと思う。 
この漱石が、何故、わざわざ三四郎を書いた後で、「あれは“無意識の偽善”だった」なんて余計な解説を加えたのだろう? 
ひょっとして、漱石の野郎、手前がエリートのくせに恋愛と縁がなかったものだから、後世のボンクラどもが恋愛などに浮かれてしまうのは絶対に許せなかった、それであんなこと言って、恋愛しそうな奴の出鼻を挫いてしまおうという魂胆じゃなかったのか? あれは後世のボンクラどもに仕掛けた“漱石の罠”だったんじゃないのか? そうすると、昨今の少子化問題にも漱石は充分に関与しているのではないか?  
こういう益のない妄想を繰り返しながら気がついたけれど、これに拘泥している奴は、どの道、恋愛など出来やしないだろう。相手に意識があったのか、“無意識の偽善”だったのか、なんて関係ないはずだ。相手に意識があっても、恋の道を知らない奴は、三四郎と同じく、何処にも到達できない。それを“無意識の偽善”などと言って、相手の女性に罪をなすりつけるなんて・・・。漱石というのは、何処まで陰険な男なんだろう。 
「行人」だったか「道草」だったか忘れたけれど、“妻”に対して、“こちらから刺激すれば反応するが自ら愛嬌を出さない女”とか評している場面があった。
「こころ」では以下のように書いている。「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手を広げて抱き締める事のできない人、――これが先生であった」。 
ここでは恋愛じゃなくて普遍的な愛について語っているものの、漱石の恋愛に対する態度も同様だったのではないかと思う。自分から女性に媚を売ったりはしなかったらしい。まあ、漱石はあの時代の人だから、仕方ないけれど、現代の男でも、風俗ばかり行って、サービスされ続けていると、こうなってしまうような気がする。
漱石は、“それから”の中で、弟子が書いた“煤煙”という小説を「肉の匂いがする」とか言って批判していた。実のところ、半分ぐらいはこの弟子が羨ましかったのかもしれない。 
ロバート・パーシングという人は、「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。 多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」とか語ったそうだが、もう一つ、ある二人の男女が妄想にとりつかれているとき、これは“恋愛”と呼ばれるのではないだろうか。  
あまり妄想が激しすぎたら困るけれど、人間の社会生活には、冠婚葬祭の為の宗教が必要であるように、ある程度の妄想があって当たり前じゃないかと思う。考えてみれば、普通の友人付き合いだって、合理的なものではない。あれは少し妄想があって成り立っているはずだ。結婚とか家族もそうだろう。 
人間、妄想を恐れちゃいけないかもしれない。もちろん、程度の問題はあるけれど・・。