メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

最大の敵:国民国家!

トルコでは、4~5年前でも、「“クルド語による教育”は“分離独立”をもたらす」であるとか、「このまま多様性を認めて行ったら国家は分裂してしまう」といった議論が激しく闘わされていた。
イスラム化の問題と同様、こういった多様化の問題でも、私は、その進展に取り残されて困惑していた。イスラム化を危惧し、多様化に反対する識者は、その具体例を挙げて危険性を主張したけれど、『そういえば・・・』と思える話は、私の周囲でも見聞できた。
イスラムの優位性を延々と説く“校長先生”、分離独立を唱えるクルド人。もちろん、そこらじゅうにいたわけじゃないが、過激な例は強く印象に残ってしまう。
しかし、例えば、社会の中でイスラムが蔑ろにされていると感じて来た“敬虔なムスリム”は、機会を得たら、この時とばかり、必要以上に優位性を主張したくなるのではないだろうか?
2009年9月のラディカル紙でヌライ・メルト氏も論じていたけれど、当時、“国民国家”は既に終焉を迎えているかのような説が唱えられていた。でも、あれから5年経った今、“国民国家”の存在が揺らいでいるようには思えない。あの手の説も余り聞かれなくなった。ただ“国民国家”の内容は、もっと多様性を認めながら変わって行くかもしれない。
2009年9月の記事で、ヌライ・メルト氏は、「国民国家への批判は、固定観念を打破し、国民国家に多く見られる硬直した差別的な態度と闘うことから始まったのであり、この為に重要な意味を持っていた」として、「全ての社会的・政治的な問題の筆頭責任者は国民国家であると宣言し、頭が痛いのも国民国家の所為にしようとすれば、批判の説得力は失われ、これに反発する声の影響が広まってしまうだろう」と論じている。
おそらく、この「批判の説得力は失われ、これに反発する声の影響が広まってしまう」という危惧が論点になっているのだろうけれど、この記事が日本の新聞に紹介されたら、結構、次の部分だけに注目した人も少なくなかったようだ。
「『私たちの父祖はアルメニア人を殺しました。クルド人を弾圧しました。そもそも独立戦争なんて大したものじゃなかったのに大袈裟に誇張されているんです。もともと私たちは最悪の民族です。おそらく全世界に謝れば、まともな人間になれます』なんてことを朝から晩まで頭に刻み込んで改善された社会など何処にもない」
しかし、これは“クルド人を弾圧した”などと過剰に反省を求めることが、却って民族主義者の反発を招いて、解決を難しくしているという指摘に他ならないと思う。
この部分は、日本でも、少し語句を入れ替えるだけで、そのまま通用しそうだから、“過剰な反省を求めている人たち”が取り上げてくれたら良かったけれど、残念ながらそうはならなかったらしい。

昨日は、韓国軍の残虐行為を非難する記事の下品さに驚いてしまったが、あれも同胞である日本人から、過剰に反省を求められた結果じゃないだろうか?
トルコのAKP政権は、“クルド問題の解決”を進めるに当たって、反発が予想される“トルコ民族主義者”の側にも、かなり配慮してきた。彼らの不満にも耳を傾け、民族主義を鼓舞する声明を出して、こちらの壁が崩れないように押さえてから、“クルド問題の解決”を思い切って進めたりした。
日本では、年末、安倍首相が靖国神社を参拝して、大きな議論になっているけれど、これも一方の壁をしっかり押さえて、次の一歩を踏み出す為の準備と見ることは出来ないだろうか? 何事も一方的には進められないと思う。