メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

白いトルコ人はむくれている

先日お伝えした『友人の長女の義父に当たる方との議論』。義父の方は教養もある立派な人物だけれど、保守的な友人家族の面々が、いつもAKPに投票しているのを、おそらく知っていながら、「“無知な民衆”がAKPを支持している」と言い放つ神経は、到底理解できない。
あれから数日後、その方の子息、つまり長女の旦那とも、また議論になってしまったが、久しぶりに話してみて、彼の主張が以前より一層ラディカルになっていたので驚いた。エルドアン首相を激しく非難して止まるところを知らない。
彼らは、何故、ここまでエルドアン首相とAKPを嫌うようになったのだろう? あまり言いたくないけれど、これには、双方の家族の事情も影響を与えているような気がする。
長女らが結婚したのは5年ほど前だが、付き合い始めたのは、それより4~5年前じゃないかと思う。当時、保守的な友人の家族は、自営業を営んでいたものの、経済的にはかなり厳しい状況だった。これに対して、彼氏の家族は、父親がかなり地位のある役人で、比較的余裕のある暮らしをしていた。
ところが、この数年で、双方家族の状況は逆転しているようだ。保守的な友人家族は、そのビジネスを拡大して、結構裕福になった。(断っておくが、彼らは別に政権党関連のビジネスをしているわけじゃない。何の助けも受けていない)
一方の家族は、役職についていた義父の方も定年退職されたし、婿殿も昨年だったか失職してしまったのである。(外資系の会社だから、思想的な問題が失職の要因になったとは全く考えられない)
これは、ある程度、トルコ全体の様相にも、当てはまる状況であるかもしれない。近年、保守層においても教育水準は飛躍的に上がった。例えば、友人の奥さんは小学校しか出ていないが、長女は一流大学を卒業している。これに類する状況は、トルコの至る所で見られるだろう。
また、政教分離主義者というか、進歩派のエリートの中にも、AKP支持を表明する人たちが出て来たため、旧来の政教分離主義者たちは、一層危機感を強めて苛立ち、ラディカルになってきたような気もする。
エルドアンはトルコにもたらされたチャンスだ」とまで持ち上げているアレヴ・アラトゥル女史は、昨年、エルドアン首相らを激しく嫌うエリート層の葛藤を描いたと言われる『白いトルコ人はむくれている』を上梓した。“白いトルコ人”とは、ハイソサエティなエリートのトルコ人を表す造語で、決して色の白さを意味しているわけじゃない。“白いトルコ人”の代表格とされるアフメット・アルタン氏などは、かなり色黒である。
しかし、アラトゥル女史自身も、その家柄、学識、作家としての実力からみて、アルタン氏と同様、疑いもなく“白いトルコ人”だろう。純白、真っ白と言って良いかもしれない。
最近、旧来の政教分離主義者とは全く逆の方向から、エルドアン首相を激しく非難しているアルタン氏はともかく、やはり“真っ白いトルコ人”と言えるメフメット・バルラス氏も、事ある毎にエルドアン首相らを擁護している。
今年亡くなったメフメット・アリ・ビランド氏も典型的な“真っ白いトルコ人”だった。ビランド氏は亡くなる前、エルドアン首相の功績を称える『ターイップ・エルドアンの10年』というドキュメンタリーの制作に取り掛かっていたらしい。
この人たちは、皆、その家柄や学識により、何処から見ても“真っ白いトルコ人”なので、自分たちを殊更白く見せる必要など全く感じていないだろう。また、その実力で揺るぎない地位を築いているため、ある種の既得権益が失われることも恐れていない。
しかし、AKPなど影も形も無かった頃から、この“真っ白いトルコ人”たちのように、もっと白くなろうと努めて来た人たちは、酷く絶望しているのではないかと思う。
かつて、ある政教分離主義者の友人は、「我々知識人が機関車となって、“無知な民衆”を引っ張っていかなければならない」と常々語っていた。実際のところ、彼の学識は、“知識人”と言えるほどのものじゃなかったかもしれないが、「神を信じない」とか「飲酒を嗜む」といった努力で、ある程度は“白いトルコ人”と看做され、“機関車に乗っている”と思うことができたようだ。
彼に、「貴方たちが引っ張れば、客車の“信心深い人たち”も、いずれは信仰を棄てるのか?」と訊いたことがあるけれど、答えは「有り得ない」だった。永遠に自分たちが機関車に乗って引っ張り続けるつもりだったらしい。
それが、今や後ろから来た客車に潰されそうになっている。
とはいえ、相当な学識があって、潰される心配のない知識人の中にも、おそらくはその信念により、現状を憂えて、ラディカルになっている人たちがいる。この方たちは、『“無知な民衆”を宗教の呪縛から解き放ち、近代化させなければならない』と固く信じて尽力して来たに違いない。その尽力が、今、反故にされようとしている。憤りの余り、ラディカルになってしまうのも当然だろう。
しかし、実際のところは、信仰を棄てるなんて「有り得ない」と答えた半端な友人の見立てが正しかったのかもしれない。
日本でも、戦後、様々な革新が唱えられたけれど、日本の社会はそれほど変わらなかった。知識人が号令かけたら、それで社会が変わると思うのは、多少傲慢であるような気もする。