メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

鷲の城

土曜日は、アイドスの頂上を極めた後、来た道を戻らず、スルタンベイリの方へ降りながら、途中、“アイドス・カレスィ(城)”という城砦の遺跡を見ることにした。
“アイドス・カレスィ”、つまり“鷲の城”は、ビザンチン帝国によって、11世紀頃には建造されていたらしい。
その後、オスマン帝国が勃興し、2代目の君主オルハンが、1326年にブルサを征服して首都に定めると、オスマン帝国ビザンチン帝国の勢力圏争いの中で、“鷲の城”は要衝の地を占めることになり、オルハンは配下の武将アブドゥルラフマンらに、この城砦の攻略を命じる。
城砦は、1328年に陥落し、オスマン帝国の手に渡ったが、陥落の際、城を守っていたビザンチン帝国の知事の娘がアブドゥルラフマンと内通していたという伝説もあるそうだ。
しかし、1331年、ニカイアがオスマン帝国支配下に入ると、徐々に“鷲の城”の重要性は失われ、挙句の果てには、廃墟となって忘れ去られてしまったと言う。
それが、2010年より、まずは考古学的な調査に始まり、現在も修復工事が続けられている。考古学の調査で発見された墓地からは、若い女性の遺骨が出土した為、この女性がアブドゥルラフマンと内通した知事の娘ではないかとロマンをかきたてられた研究者もいるらしい。
出掛ける前にグーグルアースで、“鷲の城”の見当も大体つけていたが、『多分、ここだろう』という道を進んで行って、現れた防火帯の急斜面の下に、“鷲の城”の姿が見えた時は、思わず「ヤッホー!」と叫んでしまった。
転ばぬよう急斜面を慎重に降りて、“鷲の城”の遺跡の前に着いたら、警備員さんと30歳ぐらいの男女が連れ立って、私の方を見ている。挨拶して、簡単に自分が何者で、今、何処から来たのか説明したところ、男性は「ええ、解っていますよ。貴方が降りて来るのを見ていましたから・・」と言って笑った。
彼ともう一人の女性は、修復工事に携わる建築士で、帰るために下から呼んだタクシーを待っているそうだ。女性は、「何故、トルコで暮らしたいと思うのですか?」と怪訝な表情で私に問い、私が「トルコ、美しいじゃないですか」と答えたら、“呆れた”という仕草をして、視線を宙に浮かせた。
最近、ちょっと左派的なインテリの中には、こういった対応を見せる人が少なくない。『トルコはもう保守的なイスラムの連中に支配されてしまった。こんな国の何が良いのか?』と言いたいらしい。はっきり、「欧米や日本に亡命したいくらいだ」と言う人もいる。さっさと何処へでも行けば良いだろう。

 遺跡は、未だ修復工事中であり、通常、中には入れないそうだが、警備員さんは、わざわざ責任者に問い合わせて、特別に許可してくれた。
斜面の上から見下ろした時は、『随分と麓のほうに造ったんだなあ』と思ったけれど、城砦の中に立って、下に見える街を眺めたら、それでもかなり高い所に位置しているのが解る。ウイキペディアには、標高325mと記されていた。
遺跡を一回りしてから、警備員さんにスルタンベイリへ降りる道を聞き、“鷲の城”を後にした。
スルタンベイリのバス停までは、歩いて40分ぐらいだった。メインストリートに出たら、犠牲祭前の週末とあって、歩道は買い物客でごった返し、街は賑やかで活気に溢れている。アイドス山の静寂が嘘のように思えた。

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