メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

穏健な保守主義者

フェトフッラー師の教団には、毀誉褒貶さまざまな評価があるけれど、“師に対する崇拝”という要素が見られるから、多少“カルト”的に思われても仕方がないのではないか。しかし、トルコのイスラムにモダンで柔軟な解釈をもたらしたと高く評価する識者も多い。
イスラムの解釈については解らないが、“国際トルコ語オリンピック”のような文化活動は、私も素晴らしいと思う。また、傘下のザマン紙では、ヘルキュル・ミルラス氏やエティエン・マフチュプヤン氏といった非ムスリム知識人の意見を読むことが出来る。
サマンヨル放送の“AYNA(鏡)”というテレビ番組も良い。世界各国の文化や風土を伝える紀行番組で、教団には文句を言うけれど、この番組は好きだと言うトルコ人の友人もいる。私も時々“YouTube”をチェックしながら、新編がアップされるのを楽しみにしている。
先日会った教団の友人に、「“AYNA”は未だモンゴルを取材していないが・・・」と訊いたら、ロシアと中国を刺激したくないから見合わせているそうだ。「アルメニアも取材したいが、アゼルバイジャンが気を悪くするだろう」なんて言う。
これは如何にもトルコのイスラムらしい発想じゃないかと思ってしまった。なるべく穏便に、事を荒立てないように・・・。
こんなこと言ったら、敬虔なムスリムに嫌がられるかもしれないが、イスラムの教えは、キリスト教に比べると、何だか年寄り臭くて、少し儒教に似ているような気もする。これは教えが説かれた時のモハメッドとイエスの年齢にも関係しているんじゃないだろうか。
だから、“なるべく穏便に”というのが、イスラム本来の姿であって、他の中東諸国に見られる過激なイスラムの方が異形であるかもしれない。
トルコの大多数を占める、信仰を大切にしながら現実の社会を生きる保守的な人々は、さらに穏健で、さらに柔軟であると思う。教団や宗教学の先生方は、教義を正しく解釈して伝えなければならない立場だから、一般の人々より柔軟にはなれないのだろう。
私はこの数年、度々トルコの宗教学の先生たちと話す機会に恵まれ、トルコが硬直したイスラム主義に陥る危険性は殆どないと思えるようになったが、この先生たちの話を信仰に篤い保守的な友人に伝えたら、「どうでも良いよ、そんな話。そういう先生は、いつも難しい本ばかり読んでいるから、頭が膨らんでしまったんだな」と笑っていた。彼らの柔軟さは、もっと先を行っている。
2004年11月、ラディカル紙のコラムでスアト・タシュプナル氏は、以下のように記していた。
「・・・アナトリアで数百年もの間培われてきた寛容の精神により、伝統と混交して行く傾向にあった宗教を、弄繰り回しながら、社会をまとめる要素ではなく、“分裂”させる要素へ仕立て上げることに皆して成功したのである。 外から我国を俯瞰した場合、社会は三つに分かれているように見える。一つは過剰な信仰を持つムスリムたち、それから、“宗教に反対すること”を宣言している者たち。但し、この二つを合わせたところで、総人口の1割にも満たないだろう。残りの“声無き大衆”は敬虔な田舎の人々である。彼らの信仰は伝統に近い。彼らには寛容と助け合いの精神があり、客人をもてなすことを喜びとしている。そして、残念ながらそこには無教養も沢山ある。この国を支えているのは彼らであり、この国が遅々として前進しない理由もまた彼らにあるのだ。彼らは“穏健な保守主義者”だからである。」
これは、2004年に書かれた記事であり、今やこの“穏健な保守主義者”たちが、トルコの前進も支えているのではないかと思う。

merhaba-ajansi.hatenablog.com