メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「1915年:トルコは何が出来るか?(2)」

アルメニア人のトルコ国民であるエティエン・マフチュプヤン氏が、先月(2013年4月)ザマン紙に掲載したコラム記事を拙訳してみました。マフチュプヤン氏の記事はとても難しく冷や汗ものですが・・・・。


「1915年:トルコは何が出来るか?(2)」
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ジェノサイドという言葉は、多くの国にとって“ダモクレスの剣”だ。このレッテルを貼られてしまうのは本当に恐ろしい。特に、民族主義的な傾向がある場合、ジェノサイドをやった国という認識が、貴方たちを歴史的に下等な国民にしてしまっていることを考えてみなければならない。

まるで世界の国々は、精神的な美しさを競い合っているかのようだ。そして、ジェノサイドをやったというのであれば、贖うことも出来ないまま、歴史の暗いページに送り込まれてしまう。

しかし、国連によるジェノサイドの定義を根拠にするなら、ジェノサイドをやっていない国を探すほうが難しい。現実は残酷だ:力の差がない勢力同士の争いでは、比較的に優位な側が一定の時や空間を支配するだけだが、力の差が明らかな勢力がぶつかり合った場合、力の強い側はジェノサイドの実行を余り躊躇わない。

一方、ジェノサイドの罪を訴えることが、何故、“ダモクレスの剣”であるかと言えば、この言葉が、ある歴史的な事件を例にして作り出され、他の諸事例は、その事件の重大性とは比べ物にならないからだ。

ナチスが、ユダヤ人とロマ人に対して実行したシステマティックな集団虐殺に類似するものなど、実際には存在しない。抹殺作業を技術的な施策として計画し、人間的な感情を一切排除してしまった他の事例はないのである。

しかし、ここに一つの言葉が残り、その定義の広さを根拠にして、大小の様々な抹殺行為が、ジェノサイドと名付けられてしまう。

さらに、虐殺の対象になった人たちも、これをアピールし、被害者への政治的な支援の取り付けを容易にするため、事件が必ずジェノサイドと看做されることを望んだ。

しかし、ここで被害者たちを非難するつもりはない。あまつさえ、加害者が自分たちの行為と向き合おうとしない状況では、被害者が事件を出来る限り過激にしようとする努力は、人間的な要求であると思われる。

これは、トルコが、何故、何年もの間、同じところで行き詰っているのか、そして、その間、さらに深まる心理的な泥沼に嵌ってしまったのかを説き明かしている。

一方、当然の権利として、我々はドイツに類似しているとは思われたくない。1918年における、国民議会での議論、当時の司法過程、そしてメディアに公開された回想だけでも、これを立証するのに充分である。

国あるいは国家は言うまでもなく、政府、さらには“統一と進歩委員会”でも全員が加担していたわけではない“特別組織”と地方の日和見主義者の協力によって進められた“政策”について語っているのである。

 

わけても、この“浄化”政策が、ドイツのように人種差別的な思想に基づくものではなく、抹殺というより“減少”を目的としており、トルコ民族主義による資本収得の活動に傷跡を残してしまったことを我々は知っている。

これらの全ては、アルメニア人の身の上に起こった事や、彼らにとっての事件の意味を変えたりはしない。しかし、トルコには一つのチャンスを与えるものだ。歴史を潔く見て、起こった事を認め、それをナチスの事例から遠ざけるのである。

ところが、トルコはこれをやろうとしないばかりか、何十年にわたって、「もともと彼らのほうが我々を殺した」であるとか「彼らは裏切ったのだ」といった類の、ただトルコ国内の良く知らない人たちに呼びかけることは出来ても、世界に対しては軽蔑されるだけの発言を繰り返してきた。

これは、アルメニアディアスポラに、ジェノサイドの旗を掲げさせるだけに終わってしまった。何故かと言えば、当然のことながら、彼らはこう応じたのである。「トルコで続けられる“拒否”は、事件が意図的に行われたことを示している。そして、これは事件がジェノサイドであったことを立証している」。

こういった中で、トルコは、ジェノサイドという言葉を使わない知恵さえ見せることがなかった。この言葉は、妥当ではないとして、使わないことを明らかにしながら、少なくとも、1915年のために、違う言葉を作り出すことができたはずだ。

しかし、なんという知性なのか、世界各地で今も起きているあらゆる虐殺を“ジェノサイド”と名付けてしまっている。ボス二ヤヘルツェゴビナアチェ、ホジャリがジェノサイドであれば、1915年がジェノサイドでなかった可能性もなくなる。

公認イデオロギー、公認の国民アイデンティティーは、トルコ国民を知性の面で去勢してしまった。起こった出来事を、1918年でさえ、詳細に語り合っていた社会が、長い間、記憶を失った状態で、国家が彼らに与えたイデオロギーの杖を頼りに歩く障害者のように過ごして来た。

 

社会は、国家の外交政策の材料にされてしまい、記憶も民族主義的な法理解に利用されてしまった。

 

今、その出来事と記憶を社会に返還する時である。トルコが先ずやらなければならないのはこれである。他者が望んでいるからではなく、自分たちの精神を健全にするため、そして正しい国民になるため。

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