メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコはつまらない国になる

「スカーフに関する規制を撤廃させよう!」と署名を呼びかけていたのが、右派の教員組合であれば、スカーフの着用を規制した体制は何だったのか・・・・これはやはり左派ということになる。
トルコ共和国は、分割の危機に瀕していたオスマン帝国で、外国の勢力に対して救国戦争を戦ったアタテュルクを中心とする人々によって成立した。その後、政教分離等の革命的な改革を推し進め、政教分離トルコ共和国の国是とされている。
この政教分離を特に強調している政党、例えば、アタテュルクによって設立されたCHP(共和人民党)は、左派の政党と看做されていて、CHPを支持する人々は、アタテュルクを革命の指導者として敬愛し、“デヴリムジ(革命家)”と呼ぶ人もいる。この場合、アタテュルクは左派の人物ということになる。
しかし、一方でアタテュルクは、分割寸前の国土を救った救国戦争の指導者でもある。その為、アタテュルクによる政教分離等の改革を支持しながらも、アタテュルク亡き後のCHPによる左派的な政策に多少反感を覚えている中道右派と呼ばれる保守的な人々は、アタテュルクに対して革命家という言葉をまず使わないように思う。彼らは、アタテュルクをあくまでも救国の英雄として敬愛している。
そして、保守層の中でも、さらにイスラム的な傾向が強く、政教分離にも抗議していた人々は、救国戦争の業績だけを評価し、アタテュルクを余り敬愛していない印象があった。アタテュルクを侮辱するような発言を躊躇わない者も僅かながら存在していた。
こういった人々は、“ミッリギョルシュ(国民の思想)”のネジメッティン・エルバカン氏が率いるイスラム政党を支持していたが、その支持層は、中道右派に遠く及ばないと思われていた。
ところが、2002年の総選挙では、より中道右派に近い主張を掲げて、エルバカン氏と袂を分かったエルドアン現首相らによるAKPが勝利を収め、イスラム系の政党が単独で政権を奪取するという前代未聞の出来事が起こってしまった。
これ以降、政教分離イスラムが衝突するのではないかという予見が、たびたび日本でも話題になった。しかし、トルコでは、ちょっと違った見方をする人たちもいた。いくつかのコラムに類似する論調が見られたが、簡単にまとめると以下のようになる。
80年代に始まり、90年代になって愈々顕著になった政治的、文化的な対立は、一般に言われているような、政教分離イスラムの対立ではなく、グローバル派と民族資本等に拘る民族派の対立である。この対立は、まず世俗的な知識層で現れ、グローバリズムを支持する人々は、リベラル派となって旧来の政教分離主義者たちと袂を分かった。以降、旧来の政教分離主義者たちは、民族派として民族主義的な傾向を深めて行く。
イスラム的な人たちの層でも、グローバル派と民族派の対立が起こり、エルドアン現首相を始めとするグローバル派が、AKPを立ち上げて、エルバカン氏の守旧派から離脱した。
そして、軍の内部でも、同様の対立が起こっていて、民族派はあらん限りの手段を用いて、政権を奪取したAKPを阻止しようとしたが、軍内部のグローバル派に制圧されてしまい、やはりグローバル派が勝利した司法に引き渡されてしまった。
等々、もちろん、この説が何処まで正しいのか解らない。しかし、最近の様子を見ていると、当たらずとも遠からずだったかな、というような気がしないでもない。AKPは、既に軍と蜜月の関係であるし、すっかり中道右派のポジションに居座ってしまった感じがする。
一昨年だったか、アンカラへ行ったおりに、アタテュルク廟へ詣でたら、隣接するアタテュルク博物館に、スカーフをきっちり被った敬虔そうな若い女性がたくさん訪れていて、やはりスカーフを被った指導員と思われる年配女性の説明を熱心に聞いていた。
アタテュルク廟には、毎年出かけていたわけじゃないから、これが以前から見られた光景なのか、最近始まったものなのかは良く解らない。しかし、アタテュルクを“救国の英雄”として賞賛するイスラム的な人々も目立つようになって来た。
AKPが政権にいる限り、イスラム的な傾向は随所に現れるかもしれないが、この10年でイスラム的な人たちも随分モダンになったような気がする。豊かになって、経済的にも選択肢が増えたから、人々の趣味や志向は多様なものになった。これを世俗派とかイスラム的といったカテゴリーに当てはめるのは、もう無理じゃないだろうか。
今は経済が右肩上がりだから良いけれど、経済が悪化すれば、AKPに扇動された人々が一気にイスラムへ走るのではないかと懸念する人もいる。でも、経済が悪化したら、AKPは野党に転落するだけに違いない。トルコで、そういった宗教的な扇動に引っ掛かるような人は、国民の20%にも満たないのでないか、そのぐらいだったら日本にもいるだろう。
世俗と宗教の対立、民族紛争といったセンセーショナルな話題を期待する人たちにとって、トルコは、これからもどんどんつまらない国になって行くと思う。また、そう願っている。