メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

欺瞞の平和

2008年に、日本では“ブタがいた教室”という映画が公開されたそうだ。ある小学校の先生が、子供たちに“命の大切さ”を教えるため、「ブタを皆で飼育して最後に皆で食べる」という計画を実行しようとする話。
映画が公開された時は、賛否両論が渦巻いたらしい。今、ネットで検索しても様々な意見が出てくる。
私は「日本でも“犠牲祭”が実践されたら素晴らしい」と思ったけれど、これも現実の話としては簡単なことじゃないだろう。なにより、日本にはそういった伝統がなかった。差別を無くそうと思っても、“寝た子を起こす”だけになってしまうかもしれない。
屠殺に目を背けながら、肉を美味しく頂くのは欺瞞に違いないが、そもそもこの世の中は欺瞞で成り立っているようなものだろう。
例えば、戦後の日本の平和は、アメリカに守られた“欺瞞の平和”だったかもしれないけれど、戦争に巻き込まれるくらいなら、“欺瞞の平和”のほうが有難いはずだ。その平和の構造を無理に変える必要はないように思える。
8月、長崎の慰霊祭に、トルーマン大統領のお孫さんが出席したという記事を読んだ。そうやって少しでも“真の平和”に近づけると信じたい。(“真の平和”が達成されるわけじゃないけれど・・)
2008年12月のラディカル紙のコラム記事で、ヌライ・メルト氏は、「ある人々(我々も含む)が、より快適な生活を営む為の代償を、他の人々が貧困と挙句の果てには命によって支払っている連鎖の中にいることを考えなければ・・・」と述べていたが、この“連鎖”を直視する痛みを思ったら、犠牲祭で羊を切るぐらい何でもないだろう。私はその連鎖の中にいることを、多分、なるべく考えないようにしているんじゃないのか。だから、犠牲祭で済ませてしまうのは、それこそ欺瞞かもしれない。
この記事には、いろいろ考えさせられた。以下は、拙訳した記事の一部である。
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モダンな文明と言われるものは、ある側面、こういった偽善的な状態のことではないだろうか? 肉、それも生肉に近いような肉の料理(ローストビーフ、燻製肉、タルタルステーキ)を食べながら、一つの命が失われたことは全く考えないように努める。問題はここに始まって、人間の死に対する態度にまで至る。モダンな人間として、死を頭の片隅から遠ざける為に、あらゆる方法を駆使する。もっと悪いことには、人の命を奪う戦争について正しく追究する代わりに、“戦争反対”と言って自分自身を慰めようとする。
死をもっと真摯に考えていれば、こういう風にはならなかっただろう。戦争は、数人の狂った、或いは悪質な政治家の所業であるという虚構に逃げ込もうとしなければ、自分自身の責任にもっと気がついただろう。ある人々(我々も含む)が、より快適な生活を営む為の代償を、他の人々が貧困と挙句の果てには命によって支払っている連鎖の中にいることを考えなければ、我々を悩ませている状況は変わらないだろう。

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