メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

赤坂の韓国人

99年、イズミル在住の韓国人チェさんと日本へ行った時のことです。当時、在トルコ5年で42歳だったチェさんは、中古の日本製現像機を韓国から取り寄せてトルコの業者へ販売した経験もあり、東京近辺で中古現像機の市場を見たいと希望していました。 

まず、私が日本へ行き、トルコから一旦韓国へ渡ったチェさんと連絡を取り合ったところ、チェさんはウンさんという同年輩の友人を韓国から連れて来るそうです。

このウンさんには一度ソウルで会ったけれど、少々蛮カラな雰囲気のある男で、『滞日中、何か問題を起こさなければ良いが』と何だか嫌な予感がしました。 

東京の宿をどうするのかチェさんに問い合わせると、「4千円ぐらいで泊まれるところ」という返事です。

しかし、これは東京の物価を知らないチェさんが、単に『それほど高くないホテル』という意味で示した金額だったのに、私は真に受けてしまい、『4千円じゃカプセルぐらいしかないぞ』と考えているうちに、東京で韓国の人たちが発行しているミニコミ誌を思い出しました。 

このミニコミ誌は綺麗なカラーの表紙がついた立派なもので、記事は殆どハングルで書かれています。日本での体験談等の特集記事や生活案内と共に、韓国の人たちが利用している飲食店や宿泊施設の広告が豊富に掲載されているから、ひょっとして4千円ぐらいの宿も見つかるかもしれないと期待してページを捲ったら、『韓国民宿3千円』などという広告が次から次に出てきました。 

中には、『民宿・女性専門/仕事紹介します/トルコ経歴者歓迎』なんて書かれたものもあります。私たちも“トルコ経歴者”には違いないけれど、これは“女性専用”というから話になりません。韓国語では当時まだ風俗営業の“トルコ”という言い方が普通に使われていたのです。 

一通りチェックしてから、『民宿/新大久保駅近く/3千5百円』という広告に目をつけて電話を掛けると、男性が最初から韓国語で電話を受けたので、私もその頃はまだまだ流暢だった韓国語で応じながら、予約を入れて置きました。 

当日、成田でチェさんとウンさんを出迎え、夕方7時頃に新大久保駅まで来てから、またその宿に電話すると「駅前で待ってなさい。直ぐ行くから」と今度はおばさんの韓国語でした。3人で待っていると、10分も経たない内に韓国人丸出しのおばさんが現れ、挨拶もそこそこに「ついて来なさい」と先頭に立って歩き出します。 

おばさんは直ぐ脇道に入って、両側に普通の住宅が並ぶ静かな通り進みながら、私たちを振り返り、「あんたたち日本は始めてかい?」と訊き、それからウンさんを指差して、「あんた声がでかいよ。周りを見てみなさい、静かだろ。日本じゃ皆静かにしているんだからね。あんたみたいに大きな声で話しちゃいけないよ」とたしなめます。

チェさんは声を潜めて「このおばさん、お前のことも韓国人だと思ってるな」と何だか嬉しそうでした。 

宿は新築の民家を利用した綺麗な所で、3千5百円はかなり安いと思いました。

宿に着くと、ウンさんが「友人のところへ電話を掛けたい」と言い出したので何事かと思ったら、彼には3年前から日本で暮らしている同級生の友人がいて、今回日本へやって来たのもその友人に会うことが目的だったそうです。 

電話すると、その友人が赤坂からわざわざ新大久保までやって来ると言うので、新大久保駅の近くにあるパチンコ屋の前で待ち合わせることになりました。 

パチンコ屋の前まで来たら、ウンさんはまた大きな声で話し出したけれど、周りの人たちは韓国語が解らないと思っているのか、とんでもない放送禁止用語をバンバン口にします。

私は少し語気を強めて、「この辺りには韓国の人たちが多いから、そんな話を大きな声でするもんじゃありません」と注意してから、新大久保駅の方を振り返ってみたところ、ちょうど向こうから、どう見てもヤクザの格好をした男が歩いて来たので、ウンさんに『あれだって韓国人かもしれませんよ』と言おうとして向き直ったら、ちょうどその時、くだんのヤクザ者が「サライッソソ?! イサラマー!(生きてたのか?! この野郎!)」と叫んで、ウンさんに歩み寄ると、ウンさんも「オレンマニダ!(久しぶりだなあ!)」と叫びながらヤクザ者をひしと抱きしめたのです。 

『うわっ、友人てこれかよ?! やばいぞこいつは!』という私の心配をよそに、ヤクザ者は「これから皆で赤坂へ行こう」と言い出し、タクシーを止めると、私たち3人を後部座席に乗せ、自分は助手席へ乗り込みます。 

タクシーは赤坂に向かって走り始め、少し落ち着きを取り戻したウンさんが友人に「お前、随分変わったなあ。まるでヤクザのように見えるけれど、ここで何をやっているんだ?」と尋ねたところ、友人は事も無げに「だから、そのヤクザをやっているんだよ」と答え、財布から名刺を3枚取り出して、私たちに配ります。名刺には『〇〇会・・・〇〇組・安藤某』と記されていました。赤坂では“組長”に会わせてくれるのだそうです。 

話が一段落して、ウンさんが「この人は日本人なんだよ」と私のことを紹介すると、安藤さんは突然たどたどしい日本語で話し始め、私は内心『こんな日本語でどうやってヤクザが務まるんだ?』と驚かざるを得ませんでした。 

赤坂に着くと、安藤さんは、途中、パチンコ屋の前に立っていた店員に下手な日本語で「オイ! ゲンキカ?!」みたいなことを言いながら、ふざけてケリを入れ、威勢の良いところを見せてから、普通の喫茶店に入り、私たちを入口近くの席に座らせた後、「今、親分がいらっしゃるから」と言い残して、自分は奥の方に行って座りました。 

5分ほど経ったでしょうか、55歳ぐらいの男性が喫茶店の入口に姿を見せたものの、地味な品の良いスーツを着こなした穏やかな雰囲気の紳士だったから、私は気にも留めませんでした。

ところが、この紳士が韓国語を話している私たちの横を通った時、一瞬歩みを止めて、私たちに厳しい視線を向けたのです。その視線の鋭さと言ったらありません。これには『こ、この人が組長に違いない』と思わず緊張しました。 

そして、紳士は直ぐに元の柔和な表情にもどり、カウンターのマスターに穏やかな口調で「うちの若いの来てる?」と訊き、奥の方へ行って、安藤さんと暫く話した後、一緒に私たちのところへやって来ると、「チャル・オショッスムニダ(ようこそいらっしゃいました)・・・」と流暢な、そして非常に丁寧な韓国語で挨拶して向かいの席に腰を下ろしたのです。 

その後、韓国語で雑談しながら、私が日本人であることが解ると、「ハングンマル・チャル・ハシグニョ(韓国語お上手ですね)」とこれまた丁寧な韓国語で私に微笑みかけます。それから、組長さんが焼肉を御馳走してくれることになり、近くの焼肉屋に場所を移しました。 

焼肉屋では、チェさん、ウンさん、安藤さんが一つのテーブルに座り、私は隣のテーブルで組長さんと店のママさんの前に座らされ、向こうのテーブルでは韓国語の会話が続いたけれど、ニューカマーの韓国人であるママさんは組長さんに日本語で話しかけ、こちらのテーブルはそのまま日本語の会話となったのです。 

組長さん、今度は丁寧な日本語で私に尋ねます。 

「韓国語はいつ頃から勉強したんですか?」 
「27歳の時です」 
「それじゃあ大変だったでしょう? 私は在日なんで、子供の頃から親が話しているのを聞いて少しは解っていましたが、こういう仕事をするようになって、また勉強し直したんですね」。 

まあ、これだけ話です。その時は、組長さんの穏やかな物腰に緊張も解け、巧みな話術に引き込まれて談笑したけれど、所詮は住む世界の異なる人だから、再びお目にかかることもないでしょう。しかし、なかなか魅力的な人物に思えました。