メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ドウバヤズィット/イサクパシャ宮殿

「何だもう下りて来たのか、もっとゆっくりしてくれば良いのに」。2時間ほど前に、イサクパシャ宮殿の遺跡まで送ってくれたタクシーの運転手が親しげに声をかけてきた。

1994年の6月、私は、トルコも東の果て、イラン国境に近いドウバヤズィットの町を訪れていた。のんびりと旅を楽しむほどの余裕もなかったから、ここでは、ノアの方舟伝説で有名なアララト山を眺めて、イサクパシャの遺跡を見ることができれば充分、翌日は、次の目的地であるワンに移動するつもりだった。

しかし、この日は午前中にイサクパシャ遺跡の見学を果たせたので、午後からは近くにあるという温泉まで足を延ばしてみようかと思い、声をかけてきたアフメットと名乗るタクシーの運転手に、温泉までどのくらいかかるのか訊いてみたところ、彼はニヤニヤしながら「連れて行ってやっても良いけど、高くつくよ」なんて言う。

そもそも、このアフメットは、その朝、イサクパシャまでの往復にもかなり高い値をつけてきた。高いのは案内料も含まれている為だと言うから、案内なしの片道だけにさせて、やっと適当な額まで値切ったのである。帰りは歩くつもりだったが、途中で通りがかりのトラックに乗せてもらった。トルコでは、こういう時に、たいてい車のほうから止まって声をかけてくれる。

さて、温泉に行く話は、アフメットが「そんなに急いであちこち見て歩いてもつまらないだろう。ここは俺が出すから、お茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか」というので、勧められるままに茶を頂くことにした。いろんな人と出会って話を聞くのがトルコでの旅の楽しみだったから、この際、温泉などはもうどうでも良かったのである。

アフメットは、私とほぼ同世代、20代後半から30代の前半ぐらいだろう。イサクパシャ宮殿へ向かう車中でも、ちょっと面白い話をしていたから、その続きを聞いてみたかった。朝、彼は私を助手席に乗せ、宮殿に向けて出発すると、助手席前のサイドボックスを開け、中から本を一冊取り出して見せた。それは、トルコ語に翻訳されたバイブルだった。

「君はクリスチャンなのか?」と訊いたら、彼は笑いながら肩をすくめ、「いろいろ勉強しているのさ。ムスリムでないのは確かだね」。

私が本をパラパラッと捲った後、サイドボックスの上にポンと置くと、「おい、ちゃんと中にしまってくれよ。ここはイスタンブールなんかと違う。そんなものが見つかったら拙いんだ」と言うのだった。

お茶を飲みながら、宗教についても話の続きを聞きたかったが、茶店では、周囲の耳もあるから、余り妙な話はできない。話題はもっとくだけた内容になった。

「日本人の旅行者はどうも変わっているな」とアフメットが言う。「去年は来なかったけれど、以前は決まって10月頃になると、イランから国境を越えて、続々と若い日本人旅行者がやって来るんだ。あれは不思議だった」。

良く解らないが、この手の日本人バックパッカーの殆どが大学生で、その多くは1年休学して4月に旅立つ。この人たちが、さらに同じようなコースを回って旅して来ると、結果はこうなってしまうのかもしれない。

イスタンブールで、日本を出てから8ヵ月かけてこの街へ辿り着くまでに、4回も偶然に会ったというバックパッカー同士の話を聞いたこともあった。上海とかニューデリーの安宿で遭遇したらしいが、これはもう偶然と言えないような気もする。

去年来なかったというのは、イラン政府がビザを出さなくなった為だろう。アフメットにこういった事情を説明すると、「それでは今年も来ないのか」と残念がった。

「以前は、あの季節になると毎日のように国境まで行って、良いお客さんになってくれそうな日本人を探したんだけどな」
「連中からも大分ぼったくったのかい?」
「いや、彼らはなかなか警戒心が強くて、長いあいだ逗留する場合でもホテルから余り出て来ないんだ。そりゃ、巧くつかまえたらこっちのものだから、やっぱりある程度はふっかけてやるけれど、もらった分のサービスはしているつもりだよ」

バックパッカーの中には、もっと危なっかしい国々を通ってくる所為か、やたらと用心深くなっている人もいたのだろう。しかし、トルコのこんな田舎町なら、ぼられたところで高が知れている。やはり多少はお金も使わないと、旅も楽しくならないのではないかと思う。

そろそろ席を立とうかという頃になって、中年のカップルが茶店に入ってきた。男の方は、その垢抜けない服装からして、地元の人らしかったが、女性はかなり都会風な感じである。どうやら男はアフメットの知り合いのようで、こちらに向かい手を振って挨拶した後、少し離れた席に座った。

「あれはメフメットという男で、俺と同じように観光ガイドをしている。女のほうはフランス人さ。メフメットに会いに毎年ここへやって来るんだ」

イスタンブールでは、トルコ人の若いツバメをかこっているドイツ人やら日本人のオバサンの話を聞いていたので、ちょっと冷やかしてみた。

「なんであんなオジサン相手にしているんだろう? もっと若いほうが良いんじゃないか?」

アフメットは、とんでもないといった風に顔を顰めた。

「よせやい、誰があんなオバサンの相手するんだ。あの2人は、あれでお似合いだよ」

アフメットは高校しか出ていないそうだが、本をたくさん読んでいるのか、いろんなことを良く知っているし、英語も結構話せるようだ。もともとクルド語とトルコ語バイリンガルだから、言語の感覚が良いのだろう。アララト山をガイドする資格も持っていて、かつては欧米のツーリストを案内する機会も多かったらしい。

反政府ゲリラが出没するようになってから、アララト山は入山禁止となり、ツーリストもめっきり減ってしまったそうである。

アララト山もあるし、この辺はもっとツーリストで賑わっても良いはずなんだが」とアフメットは言う。しかし、観光地化していない為に、人々が純朴さを失っていない良さも認めていた。

「ここだから、のんびりこんな仕事していられる。よその観光地でこうは行かないだろう。イスタンブールで働いたこともあったけれど、あまり住みたいとは思わないね」

トルコでは田舎へ行けば何処でもそうなのかもしれないが、確かに、この辺りの人たちの優しさには何とも言えないものがある。

その前の日、アララト山を望むことができる町外れまで出かけてみたが、そこでも思わぬ歓待を受けた。ぼんやりアララト山を眺めていたところ、近くの農家の人が庭先に出て来て手招きする。近づいて行って、トルコ語で挨拶すると、向こうも、ごく当たり前にトルコ語で挨拶を返しながら、「どうぞ、お茶飲んでいって下さい」と家の中へ招き入れた。

こういうトルコの人たちのホスピタリティーは本当に不思議だ。よそから来た旅人であれば、誰にでもお茶ぐらいは御馳走して上げるものだと思っているらしい。

でも、この時はお茶だけじゃなかった。よく冷えたアイランというヨーグルト風味の飲み物、薄焼きのパン、そして、塩漬けにした魚の焼いたものが出て来た。ドウバヤズィットのような内陸部の高原で魚は珍しい。訊くと、ワンから送られて来るそうだが、ワン湖で獲れた魚かどうかは分からないと言う。

結局、あの日、温泉とやらに行くのは止めにした。昼過ぎ、アフメットが車で、メフメットとフランス人の彼女をイサクパシャの遺跡へ送るついでに、私も乗せて行ってくれることになった。今度はアフメットに遺跡の中を案内してもらえるそうだ。

「朝は、どうせその辺うろついただけだろう? こんなの只じゃできないが、今日は特別だよ」

遺跡では、いつ終るとも知れない修繕作業が行われていたけれど、かなり荒れたままになっていて、もちろん案内板などはなかった。案内板なんて無いほうが良いものの、確かに、朝来た時は、何も分からぬまま、うろついて来たのである。

アフメットはガイドだけあって遺跡の詳細を実に良く知っている。宮殿の主だったイサクパシャの伝聞に至るまで詳しく説明してくれた。礼を述べると、「だから言っただろう。料金に見合うサービスはしているんだよ」と愉快そうに答えた。

もっとも、説明してもらった内容の殆どを、今は思い出すことができない。案内があるに越したことはないが、イサクパシャの遺跡は、その景観だけでも充分に感動的だったと思う。

遺跡からの眺望も素晴らしかった。私たちの隣で、修繕作業の石工たちも仕事の手を休めて、気持ち良さそうに景色を眺めていた。話を聞いてみたら、彼らは黒海地方のバイブルトから来ているという。バイブルトの石工は腕が良いので、全国各地の遺跡で仕事があるそうだ。

アフメットは知り合いというわけでもなかったようだけれど、随分親しげに彼らと話し込んでいた。トルコの人たちにはお喋りが多いから、何処でも直ぐに話の花が咲いてしまうのである。

遺跡の回りに景観を壊すものはなかったが、唯一、裏手を少し登った所に、無愛想なコンクリート造りのカフェテリアが建っていて、これがえらく目障りに思えた。それをアフメットに伝えたら、「俺もそう思うけど、あれは俺の兄貴がやっているんだ」と苦笑い。

「欧米のツーリストを当て込んで建てたものの、さっぱりだね。一時は、あそこに泊まって遺跡で夜明けを迎えようとするツーリストで結構賑わったこともある。でも今や宿泊施設は手入れもしていないから酷いものだ。カフェテリアも専ら地元の連中が集まる所になっているよ。実は今日も宴会があって、終ったら俺も何人か町まで送らなければならないから、君もその時一緒に帰れば良いさ。ここで夕日を見るのも悪くないだろう」

暫くして、アフメットは、「直ぐに戻る」と言い残し、メフメットと彼女を乗せて町へ下りて行った。

私はカフェテリアの裏手をさらに登り、ちょうどその無愛想な建物が視界から外れ、遺跡がきれいに見下ろせる場所を見つけると、そこで日の入りを待つことにした。夕日は、遺跡からドウバヤズィットの町を隔てた向こうに連なる山々の間に落ちるのである。

やがて日が沈み、辺りに夕闇が迫ってきたので、カフェテリアへ引き返すと、アフメットは既に戻って来ていた。

「俺たちは外のテラスで落ち着くことにしよう。中では連中がそのうち踊り出してえらい騒ぎになるよ」と言って、私をテラスに座らせてから、アフメットは中へ入って行き、やがてビールとグラスを持って出て来た。

「食べる物は中にいくらでもある。まあ、勘定は連中持ちだから、余った分から持ってくるさ」

外からでも中の様子は良く見える。集まっているのは12~3人といったところだが、大分盛り上がっている。

この当時、ドウバヤズィットでは夜間外出禁止令が出ていたため、前日は夕暮れが迫ると、早々にホテルへ戻った。しかし、アフメットも中の連中も、そんなことは全く気にしていないらしい。

「ホテルで誰かが待っているというわけじゃないだろ。それならゆっくりしていこう。宴会はまだまだ終らないからね」

そして、私たちの話も何時終わるとも知れないように続いた。考えてみれば、この時点でアフメットと出会ってから未だ10時間ぐらいしか経っていなかったが、まるで旧知の間柄のような雰囲気だった。

アフメットは、昔、左翼の運動に傾注していた時期もあったそうで、その時に警察でやられたと言いながら、足にある傷跡を見せてくれた。

「でも政治的な話は、もううんざりだよ。右も左もない。みんな嘘ばかりだ」

私はこれを聞いて、朝のバイブルの件を思い出したが、宗教や思想に関する深刻な葛藤が、彼を悩ましているとは思えなかった。いずれも単に好奇心の対象だったかもしれない。

外出禁止の制限時間はとっくに過ぎていて、辺りはもう真っ暗になっていた。遠くの方で、「ドーン、ドーン」と砲声が聴こえる。しかし、実際に危険を目の当たりにしたことのない私には、これといった実感がわいてこない。他人事のように、「あれはどの辺だろう?」と訊いてみた。

アフメットは別に気にも留めていない様子で、「心配するな、あれは演習さ」と答える。

「考えてもみてくれよ。俺たちはずっとここで生活してきているんだ。そんなに危険なはずがないじゃないか。特に近頃、事態は完全に収まっている。好い加減にしてもらわないと、こっちも干上がってしまう」

この言葉を裏付けるかのように、カフェテリアの中からは時ならぬ歓声が沸き起こった。見ると、酔いの回った男たちが、お互いに肩を組んで踊りに興じている。

「いつものことだけど、この馬鹿騒ぎに付き合わされる身にもなって欲しいよ」

アフメットはこっちの方も好い加減にしてくれと言いたげだった。

そのうち宴会も一段落ついたのか、何人か外に出て来て私たちの会話に加わってきた。しかし、中では、そろそろお開きにしようかという周りの思惑など気にする気配もなく、酔いにまかせて未だ気勢を上げている者もいた。こういう手合いは何処にでもいるのだろう。やがてこの事態も収拾された。

ドウバヤズィットに下りると、果たして町には人影も何もない。シーンと静まりかえっている。外出禁止令が全く無視されているわけでもなかったようである。アフメットは私をホテルまで送ってくれた。そして、翌朝、私はワンに発ち、それ以来アフメットには会っていない。

その後、イスタンブールに戻って2ヶ月ほど過ぎた頃。イスタンブールに在住している知り合いの日本人がドウバヤズィットに旅行すると言うので、私はアフメットの連絡先を教えて世話になるよう勧めておいた。

後日、帰って来たその人に、「旅行は如何でした?」と訊いたら、呆れたように、「貴方が教えてくれたのは、とんでもない男でしたね。ぼったくりもいいところです。もちろん、その手にはのらなかったけれど」と言われてしまった。

私は表向き、「はあ、それは残念でしたね」と言いつつ、心の中で、「アフメットは俺の友達だよ。それなのに、何てことを言うんだ。少しぐらいぼられたって良いじゃないか」と舌打ちしていた。