メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アルメニア人のガービおじさんと猫

2004年~2005年にかけて1年ほど間借りしていた部屋の家主だったマリアさんの家族、そして家族の友人ガービおじさんについては、今までにも何度なく話題にしてきました。

マリアさんは一昨年の4月に亡くなり、家族は娘のスザンナさんと彼女の息子のディミトリー青年の2人だけになったけれど、新年や誕生日のような祝い事があれば、必ずガービおじさんも訪ねてきて、相変わらず賑やかにというか騒々しくやっています。ガービおじさんは耳が遠いから大声で話さなければ聴こえないという要因もありますが、スザンナさんも今は亡きマリアさんと同じく、直ぐに感情を剥き出しにして喚きたてるため、いつも大騒ぎになってしまうのです。

86歳になるガービおじさんは、マリアさん家族と既に50年近い付き合いらしいけれど、マリアさん家族のようなルームと呼ばれるトルコ国籍のギリシャ人ではなく、アルメニア人であり、正式にはカプリエル・ヌバル・ムムジュヤンと言います。

ガービおじさん、トルコ語アルメニア語ばかりか、イタリア語とフランス語をこなし、ギリシャ語もかなり話せるものの、さすがにマリアさん家族と話す時は、殆どトルコ語を使っています。

ガービおじさんが生まれた86年前、その家族はイスタンブール市内のシシリーに豪邸を構え、イスタンブールの沖合いに浮かぶビュユック島にいくつものお屋敷を所有し、働くお女中さんたちの数は30人を下らなかったという話です。

ガービおじさんはフランスのパリで生まれ、3歳の時にイスタンブールへ戻り、イスタンブールの名門ガラタ・サライ高校を卒業して、大学はイタリアのフレンツェに学んだというから、それはもう大変なエリートであったに違いありません。

さらに、マリアさんから聞いたところによれば、若い頃のガービさんはサッカー選手としても活躍し、やはりビュユック島出身でトルコの伝説的なサッカー選手であった“レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)”がトルコ・リーグのフェネルバフチェから、1951年にイタリアのフィオレンティーナへ移籍した際には、そのマネージャーを務めたそうです。

レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lefter_Kucukandonyadis

しかし、レフテル・キュチュックアンドニヤディスは、マリアさん家族と同じルームと呼ばれるギリシャ系ですが、ガービおじさんは、いつもこの人物を“恩知らず”と口汚く罵っています。

2007年の正月、上記の話をホームページに書こうとして、マリアさんに確認の電話を入れた時も、マリアさんがちょうどそこにいたガービおじさんから、わざわざイタリアの移籍先チームの名前を聞き出そうとした為、激怒したガービおじさんが、「なに! レフテルだと? マコトはいったい何を調べているんだあ! レフテルは恩知らずの糞野郎だあ!」と喚いている声が電話口まで聴こえてきました。

レフテル・キュチュックアンドニヤディスは、今もビュユック島の名士として健在であり、島にはその名を冠した街路まであって半ば生ける伝説と化しています。それに引き換え、ガービおじさんは、今やシシリー区内の小汚いアパートで侘しい一人暮らし、レフテル氏との間に何があったのか知りませんが、彼我の差を思うと悔しくて仕方がないのでしょう。

レフテル氏については、マリアさんも「大工の子で読み書きも知らない(おそらくギリシャ語の)」と言って貶していました。マリアさんは、レフテル氏と同じルームであっても、没落したブルジョワとしてはガービおじさんと同じ立場にあったわけで、そこには階級的な意識も潜んでいたように思います。

現在、シシリー区内にあるガービおじさんのアパートには、スザンナさんが週に3回ほど訪れて面倒を見ているだけで、往時の栄華は偲び様もありません。昨年の今頃には、30人のお女中どころか、17匹の猫に囲まれて目も当てられない有様となっていました。猫はマリアさんから2匹もらって飼い始めたのがどんどん増えてしまったというけれど、なにしろ1匹も外に出さず、17匹を全て部屋の中で飼っていたため、その臭さといったら堪りませんでした。ついには階下の住人からも苦情が出たので、スザンナさんが説得して、猫を少しずつビュユック島へ移すことになり、これが一昨日、1年がかりでやっと完了したのです。

一昨日、私も手伝って4匹をビュユック島に運び、残るはとうとう1匹だけになりました。1年の間に、また8匹ぐらい生まれたらしいから、都合24匹ほど島へ運んだことになるでしょう。

昨年、この猫移動作戦が開始されて以来、何度かガービおじさんのアパートを訪れましたが、その臭いもさることながら、部屋の大部分は古新聞や余り必要とも思われないガラクタの山で占拠されており、『よくこんな所で暮らせるものだなあ』と溜息が出てしまいます。

古新聞の中には、イスタンブールで発行されているアルメニア語の新聞もあり、2007年の1月、この新聞の代表者が殺害された事件で、ガービおじさんは冷淡に何の感想も洩らさなかったとスザンナさんが嘆息していたけれど、ガービおじさんは今でもこれをシシリー区内にある発行元まで出向いて購入し続けているそうです。

ラクタの山とは申し上げたものの、壁にはイエスの描かれたイコンのような絵が掲げられており、これは満更ガラクタでもないかもしれません。そして、もう一枚、壁に掲げられた古めかしい肖像画。トルコ帽を被った威厳のある人物が描かれていますが、この方はガービおじさんの祖父にあたり、オスマン帝国の高官として栄達を極めた人物であるといいます。

さて、猫移動作戦は、当初、ビュユック島で“猫屋敷”と呼ばれている廃屋の庭に猫を放す計画だったものの、これは昨年7月の第一回目で早くも頓挫してしまいました。

あの日、ガービおじさんとスザンナさん、私の3人で島へ向かい、船が島の桟橋に着くと、計5匹の猫が入った二つのキャリーケースを私が抱え、ゆっくりとしか歩けないガービおじさんを後ろに残したまま、スザンナさんと一足早く“猫屋敷”に着いて様子を窺っていたところ、そこへガービおじさんと同い年ぐらいの老人が現れ、「君たち、猫を放すんじゃないだろうね。そんなことしてはいけないよ」と厳しい口調で私たちに注意したのです。

スザンナさんは、「いいえ、猫を放すなんて。私たち、ここで友人を待っているだけですから」と殊勝な態度で言い訳したものの、老人は通り掛った二人連れをつかまえて、「こうやって無責任に猫を放す人が後を絶たないから困ったものです」と嫌味たっぷりに話してから、その場を後にしました。

これでは、さすがにそこで猫を放すわけにはいきません。仕方なく、ガービおじさんを探しに、桟橋の方角へ向かおうとして、最初の角を曲がったら、その陰にガービおじさんが佇んでいました。『さては揉めているのを見て、ここに隠れていたんだな』と私は思ったけれど、スザンナさんはそういう風に受け止めなかったようです。

「あっ、ガービ、今来たの?」
「どうだ? 猫は放したのか?」
「それが放せなかったのよ。ほら、キャリーケースを見なさい。未だ猫いるでしょ。放せなかったのよ」
「なんで放さなかった?」
「あんたの宿敵が現れたのよ。あんたの宿敵! レフテルよ! レフテル! レフテルが出て来て、猫は放すなって!」
「えっ! なんだって? レフテルか? レフテルがいたのか? おのれ、レフテルの奴め! 恩知らず! 糞野郎!」

『へーっ、あの御老人が、かの伝説的なサッカー選手、レフテル・キュチュックアンドニヤディスであったのか』と私は何だか感慨深く、老人の面影を思い返してみたものの、ガービおじさんを見たら、それどころじゃなくて、「アッラー(神)に誓って申します。レフテルは恩知らずの糞野郎です」と泡を飛ばしながら、大袈裟な所作で十字を切り、再び「アッラー・・・」と繰り返して、大袈裟に十字を切ります。“アッラー”は、アラビア語で神(ゴッド)を表す言葉だから、キリスト教徒のガービおじさんが「アッラー」と言ったところで、なんの不思議もありませんが、その大袈裟な十字を切る所作と「アッラー」の繰り返しは何だか妙に思えてなりませんでした。

結局、猫はマリアさん家族が以前から借りていた別宅の中庭へ放すことにしました。“猫屋敷”なら、猫へ餌をやるおばさんが常時いるものの、ここではそうも行かないため、ガービおじさんは嫌がっていたけれど、他に適当な場所もなく、なんとか承知してくれたのです。

しかし、別宅前の通りでも猫に餌をやる人たちがいて、猫たちは中庭から通りまで出て来て餌を漁るから、ガービおじさんが心配したような事態には至りませんでした。

一昨日、猫を放した後、ガービおじさんが中庭に餌を置くと、以前連れて来た猫たちも寄ってきたので、ガービおじさんは嬉しそうに「ジジクズム(可愛い娘よ)、ジジクズム」と呼んでいましたが、“可愛い娘”の中には既に野生化してしまったのか、餌には近づいても、ガービおじさんには近づかない不届き娘もいて、ガービおじさんの後姿は心なしか寂しそうに見えました。