メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

動物の屠殺

 上記の駄文でお伝えした韓国人の御夫婦は、イズミルの近郊に農場を持っていて、この2001年の訪問では、農場の方にも案内してもらいました。

御主人のパクさんに案内されて農場についたら、いきなり大きなシェパードが躍り掛かって来たけれど、尻尾を振って歓迎しているみたいだから、頭でも撫でてやろうと思い、「パクさん、この犬は噛みつきませんね?」と訊いたところ、「気をつけなさい。私も噛まれたから」なんて言うので、先ずは肝を潰してしまいました。それから、家の庭先に用意されたテーブルの席を勧められたのですが、その隣の低い柵で囲われた庭には、15~20羽ぐらいの鶏が群れていて、またまた肝が潰れそうでした。私は鶏が大の苦手だったのです。

これもどういうわけか、羽を毟られて肉屋さんに並んでいる鶏を見るのは大丈夫だし、手羽先の唐揚などは大好物であるものの、羽のついている鶏や鶉、鳩、インコなどは、見ているだけで気持ちが悪くなってきます。昔、地方の旅館で働いていた頃、調理場の人に「羽を毟っといてくれ」と5~6羽の死んだ野鳥を示された時は心臓が停まりそうになりました。恐々、2羽ほど毟っただけで、直ぐに他の仕事を命じられたから助かったけれど、あの感触の気持ち悪さは未だに忘れられません。

パクさんの農場でも、お茶を頂きながら、なるべく鶏の方は見ないようにしていましたが、「どうです、うちの鶏は?」と訊かれて、明後日の方向を見ているわけにも行かなくなり、恐る恐る鶏の方に向き直って、鶏に関するパクさん夫婦の話を聞いていたところ、1羽の鶏がぐったりしているのが目に映ったので、「あれはどうしたんでしょう?」と奥さんに尋ねたら、「ああ、良く気がついてくれましたね」と、奥さんは何か用意して柵の中へ入って行き、その鶏をつかまえて出て来ました。

それから、奥さんがそのまま鶏を近くの木陰へ持って行くまでは、『どうするのだろう?』と思いながら見ていたけれど、奥さんの手に刃物が見えた瞬間、私はそこから目を逸らしてしまいました。羊はともかく、鶏が切られるのは気持ちが悪くて正視できなかったのです。

犠牲祭で生贄が屠られる光景を絶対に見たくない人もいるでしょう。これ見よがしに所構わずやられたら堪ったものではないかもしれません。

昨日の新聞には、犠牲祭の問題点を指摘する記事がいくつも出ていましたが、これ見よがしに大威張りで屠殺したり、生贄を乱暴に扱ったりする行為が非難されているのは確かに納得がいきます。毎年のように、街中で逃げる牛を追っかけまわす光景がテレビに映し出されるけれど、御するのが難しい牛は専門家に任せて、一般の生贄は扱い易い羊だけすることは出来ないものでしょうか。

しかし、生贄の屠殺そのものを批判する次のような意見には、抵抗を感じました。
「・・・動物が人々の目の前で殺されるのは、我々の潜在意識に必ず一群の不健康な痕跡を残している・・・」

子供の頃から、動物の屠殺を間近に見てきたという農村出身の友人たちの潜在意識に、そんな不健康な痕跡があるとは、とても思えません。それに、これでは屠殺場などで誰も働けなくなってしまうでしょう。

未だ続けられているかどうか解りませんが、四半世紀近く前に、東京で子供の為の音楽教室を運営していた友人たちは、情操教育の一環として、子供たちを農村へ連れて行き、動物を屠ってから、その肉を料理して食べるまでの過程を体験させたそうです。都会で育った子供たちは、肉をパックに入ってスーパーで売られている商品としか思っていないように、生と死についても頭の中だけで考え、深く理解していない場合があるからだ、と友人はその理由を説明していました。